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瞑想の道〚46〛瞑想者と師

 瞑想して真我実現するためには師が必要になる。特別な才能と感覚を持っていない限り、それを自己流で完遂するには限界があるだろう。自分の理解に疑念を持ったときに、それが確かな真実だと認める方法を知らなければ、そこで探求は頓挫する。これが正しいという思い込みにとらわれて、まったく見当違いの方向に進んでしまうこともあるかもしれない。暗闇で闇雲に歩いていても、目的地に到着するどころか、その労力を無駄に消費するだけになる可能性が高い。そこに真が実現のための適切な方向を指し示してくれる師がいれば、状況は変わってくる。優れた師であれば、瞑想で何をするべきかを明確に示し、その理由を伝えることができる。様々な疑念に対して、曖昧な言葉で濁すこともなく、その解決方法を瞑想者に分かりやすい言葉で説明するだろう。師は瞑想者がどのような状況に置かれているかを把握していて、そこで何をするべきかを知っている。もちろん、師は真我実現している必要がある。その全体像を理解しているからこそ、瞑想者の現在地を把握し的確な助言ができるのだ。

 師は真我実現している必要があるが、それだけでは瞑想者にとって適切でない場合がある。瞑想者が理解できる言葉が必要であり、助言が相手に伝わるよう話さなければならない。瞑想者が瞑想で何をすればいいのか分からず停滞しているなら、それは師の責任だ。瞑想者はいま何をするべきかを知っていて、何のためにそれをしているかを理解していれば、要らぬ迷いに陥ることはない。その師の言葉によって、実際に瞑想者が真我実現に近づいていることが最も重要だ。もちろん、それは瞑想者の熱意や感覚に依ることが大きい。いくら師が適切な言葉で教えを授けても、瞑想者がそれを実践しないのでは意味がない。それには師と瞑想者との人間的な相性もあるだろう。そこは自我的なことになるが、この世界においては無視できない要素だ。師と瞑想者の自我的な関係は真我ほど単純ではなく、見解や感覚の相違が絡むゆえに難しいことになるだろう。

 この世界で相性の良い優れた師に巡り会えた瞑想者は幸運だ。それによって、真我実現が現実味を帯び、この人生での仕事をやり終える可能性が高まるからだ。ただ、瞑想者はいつまでもこの師に依存するべきではない。本来の師は自らの心の中にいる。その師は真我自身であり、何も言わなくても真実を体現している。この無言の師だけが、最後の拠り所となる。人間の師はそこまでの橋渡しをしているに過ぎない。もし人間の師がそこにいないと真我実現を維持することができないなら、それはまったく意味のないことになる。真我実現は誰にも依らず自らの内に於いて完結するべきことだ。そうなったら、真我実現のために人間の師は必要なくなる。本来の師に触れて、それとひとつになっていることが真我実現なのだ。そのとき師弟という関係性は消滅する。

 この世界には瞑想の師と呼ばれる人が多く存在する。瞑想者はその師を選択する自由がある。もちろん、瞑想者はその時の望みに合わせて、自由に師を選ぶことになるだろう。その望みは変わる可能性があり、それに合わなければ、師の元を去り、新たな師を求めることになる。まだ真我実現を求めていないのであれば、無理に真我実現の師を選択する必要もない。真我実現は瞑想者に高い領域の理解力が要求される。基本的な瞑想修練は必須になる。それは簡単なことではなく、長く困難な道になるという覚悟も必要であり、お互いにそれをやり抜く熱意も不可欠だ。瞑想者はそれを諦めるという自由が与えられているが、師にそれは与えられていない。師は導きが必要とされれば、必ずそれに応えなければならない。そのための真我実現を伝える言葉の研鑽を怠りなく積んでいく必要がある。真我実現はそれを教える師にとっても厳しい道になる。

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