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瞑想の道〚27〛真実と努力

 自分が真我であると悟ることは簡単ではない。ある意味、骨身を削るような大変な努力を必要とする。悟るためには、時空を切り裂き、自我という分厚い壁を破壊しなければならないのだ。そのために何もしなくていいという覚者の教えは、慎重に受け取る必要がある。それはあくまでも真我を悟った者の言葉であり、そうでない人のものではない。もちろんそれは人を騙すために言っているのではない。覚者は真我探求のために大変な努力を重ねて真我実現を果たした。ただ、結局何もしなくても、そもそも自分は真我であったと、そう気づいたのだ。

 そう気づくためには、やはりそれ相当の努力や修練が必要だ。まず自然にそう気づくことはない。何の努力もなく自然に真我を悟ったという者がいたとしても、それはほとんどが一時的であり、真我に対する厳しい検証もしていないだろう。自我はいないと言ってるだけの自我になっていないか。誰が自分は真我だと言っているのか。そもそも真我は一言も喋らないため、何もしなくてもいいなどということも言わない。それは自我の言葉に他ならないのではないか。真我はそういった厳しい自我の検証を経て確実に真実だと認められる必要があり、だからこそ、自我は真我へ自分を移譲できるのだ。

 何もせずに自然であるがままにいること、これは真我の本性のことだ。それは間違いではない。だが、自我が何もせず、自然であるがままにいれば真我になれるのかというと、そう話は簡単ではない。自我が真我の真似事をしても、それで真我になることはまずない。自我の真似事は世界の変化の流れにあるため、それは簡単に移り変わる。真我のような何事にも動じない平穏な心は、すぐに落ち着きなくイライラとする心へと変わってしまうだろう。これが自我の真似事の限界点だ。変化してしまうのであれば、それは真我ではなく、真我のふりをしていただけということになる。世界がどうあれ、何もせずに自然であるがままでしかいられないのが真我なのだ。

 言葉は誤解を生むものだ。だが、それでも言葉は必要だ。真我を理解するきっかけは言葉になる。そこからそれを自分の瞑想の中で検証し、真実だと認めていく厳しい過程を進めていく。非二元もワンネスも無も概念としての言葉でしかない。その概念で立ち止まることはそれの理解を放棄しているに過ぎない。言葉だけの理解ではそこに真実のかけらもない。真我を実際に自分の中で真実だと認め、努力と修練によって自我の抵抗を乗り越え、自らが真我自身になったとき、本当の意味で非二元やワンネスを理解できるようになるだろう。そのとき、もはや概念的な言葉は必要ない。誰からの説明も不要になり、誰からか認められる必要もない。そこには何の努力もなく、決して消えることのない自分でいるという感覚だけになる。 

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