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瞑想の道〚36〛体験の超越

 真我は体験ではない。一瞥体験は悟りへの大切な過程だが、それが終わりなのではない。体験ということは、それが対象であり、過去の出来事だということだ。自我はそんな体験を大事な記憶としてつなぎとめておこうとするだろう。だが、そんな記憶が悟りになることはなく、そこで立ち止まって意味を失った過去に縛られる続けることになる。自我はそうして縛られることで、そこに何かの意味を見出そうとするかもしれない。その気持が理解できないではないが、色褪せた体験の記憶からいったい悟りの何が分かるというのだろうか。その体験をした時点で、その段階は終わったのだ。どれだけ素晴らしい体験であったとしても、それを躊躇なく捨て去り、さらに先へと進む必要がある。一瞥体験で満足せずに、その先へと進まなければ、真実を知る機会は失われたままになってしまう。 

 自分は真我であり、常にそれであることだ。過去の体験ではなく、今も、あるいはどんなときでも真我であり続けている。悟りとはそれを完全に自覚し、いつでも自分が真我だと認識していることだ。マインドが幸せで有頂天になっていようが、絶望して落ち込んでいようが、真我はそれに影響を受けず、いつもまったく変わらない自分としている。もし一瞥体験で恍惚とした感覚があったのなら、それも忘れることだ。それに囚われてしまうと、恍惚体験が真我だと勘違いしてしまうだろう。いくらそのような至福の体験を集めたとしても、それが真我になることは決してない。真我は何かに喜ぶことも悲しむこともない。愛することも憎むこともない。そんな心の変化とは違う領域に在るのだ。

 そう聞くと、真我はなんとも味気ない存在のように思えるかもしれない。果たしてそんな真我を目指していいものだろうかと懐疑的になるかもしれない。確かに真我には感情の起伏や一片の思考さえない。それだけを捉えてしまうと、真我とはつまらないものだと感じられる。自我はそれをつまらないものだと思いたくないために、様々な体験から至福や不動心など真我に色付けをすることがある。色付けされた真我はもはや真我ではなく、自我の描いたただの想像に過ぎなくなり、その真実から離れてしまう。真我は世界での何かの体験を得て成し遂げられるものではない。世界や身体感覚、思考領域での体験をすべてを捨て去り、どうしても捨てることができないものが真我として残るのだ。

 どうしても捨てられないなら、そこから消し去ることもできないだろう。そう在るように努力する必要さえもない。繊細で壊れやすい宝物を守るように、その取り扱いに気をつける必要もない。色褪せないよう記憶につなぎとめておく必要もない。真我は決して失われることなく、破壊されることなく、何かに変容させられることもない。それが真我の本性であり、真の自分なのだ。この真我の価値は真我になったときにしか分からないだろう。それを知りたい自我だけが、ただこの真我を目指して時空を生きていくのだ。

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