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瞑想の道〚28〛神の存在

 神は存在するのか存在しないのか。神には姿かたちがない。伝説や物語に登場するいわゆる人格神は、姿かたちのない神をこの世界の人々が想像したものに過ぎない。それ自体が神の本質を語るものではない。現実には透明で動きのない存在が神であり、その神はこの世界で何もしない。ただ世界に寄り添っているだけだ。その神の本質を理解していなければ、まるで神など存在していないように感じるだろう。神を信じている人でも、その人に神が何もしないのであれば、次第にその存在を信じなくなるかもしれない。人々にどう思われようとも、神は存在している。神が存在しているからこそこの世界があり、人々が存在できるのだ。その神とは真我のことであり、つまりは存在のことだ。

 神は自我の思うようにはならない。自我が幸せを望んでも、神がそれを実現させることはない。自我が窮地にあっても、それを救済することもない。それでも神はこの世界の恩寵なのだ。世界はその恩寵によってつくられている。世界の動きは恩寵自身に収束する方向に動いている。始まったものは、その始まりに戻っていく。つまり、神から始まったものは神に戻っていく。これが神の恩寵の本質だ。この世界は神からはじまり、神に帰っていく。すべての人は神によってつくられ、その本質は神だ。それは善良であるとか高徳であるということではない。どんな悪人も下劣な人も神でつくられている。このことに例外はない。

 誰もが自分は神だということを知ることができる。なぜなら、すべてが神によってつくられているからだ。自分が何でつくられているのかを調べれば、そこに否定できない答えが見つかるだろう。誰でも瞑想して心の微細な領域を探れば、そこに神を感じ、それと同一化することができる。神は何もしないため、そうして神を見つけよと言うことはない。もちろん、そうして神になったとしても、自我に吉祥がもたらされるわけでもない。神に救済を願うことさえできなくなる。自分が神であるなら、いったい誰が救済してくれるというのだろうか。自分が神と同一化しても、自我は乱暴で気まぐれな世界の流れの中で翻弄され続けるだろう。

 神は何も望まず、何も意図していない。人を幸せにしょうとも、豊かで平穏な世界をつくろうとも思っていない。神は始まったものが終わるのを黙って見届けるだけだ。終わりとは、自分が神、つまり真我だと知ることだ。この世界で人が極められることで、これ以上のものはない。それは自我とこの世界の終焉でもある。その最後には神だけが残る。神は決して消え去ることがない。この世界は創造と破壊、誕生と終焉を繰り返していくだろう。そんな変化の中に確かなものなどない。ただ、世界は神によってつくられ、神だけが変化せずに存在していこる。これがこの世界の本質だ。それを見極めるのが瞑想の道なのだ。 

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