【小説】月の檻 ー後編
〝純喫茶ブルームーン〟。
夏目家は喫茶店を始めた。もともとそのつもりで東京から引っ越してきたのだそうだ。近所の主婦や老人たちは都会から来た夏目夫妻に興味もあり、店は開店早々に彼らの溜まり場と化していた。
八月に入って間もない日曜日に、僕はブルームーンのドアを初めて開けた。
夏目夫妻に過剰なほどの歓迎を受けていると、待ち合わせの相手が二階から降りてきた。ネイビーのTシャツにジーンズのハーフパンツ。胸のふくらみがなければどう見ても男子高校生だ、と思って眺めていると、
「おはよう」
掠れた声で挨拶された。つられたように僕も返す。
起き抜けの夏目に、父親がグラスを差し出す。曰く、レモネードだと言う。須田君もどうぞ、ともう一杯出してきた。レモンの甘酸っぱさが夏の朝に良く合う、などと思って味わっていると、隣の夏目は腰に手をやって一気飲みしていた。情緒のない奴だ。
「須田君、よろしくね。この子、ぼんやりしてるところがあるから、しっかり捕まえていてね。お願いします」
夏目母はそう言って頭を下げた。
徒歩で高崎駅へと向かう。そこから吾妻線で長野原・草津口駅まで一本だ。
目的地は、草津温泉。
電車の中で、夏目はすぐさまガイドブックをめくり出した。手持ち無沙汰の僕は気になっていたことを尋ねることにした。
「なぁ、なんで自由研究が群馬の温泉について、なんだよ」
カピバラの写真が大きく載ったページを開いたまま、夏目は顔を上げて珍しいものをみるような目で僕を見た。僕はカピバラと同類らしい。
「貴重じゃないの?」
逆に質問されてしまった。そうか、東京人には温泉は貴重なのか。地元民にしてみれば、そこかしこに『温泉』の看板が立てられているから、物珍しさもありがたさも感じない。温泉が研究材料に十分なるのだ、と夏目の目は主張していた。
「群馬には草津の他にも温泉、あるぜ。伊香保、四万、水上。もしかして全部行くつもり?」
「あとは伊香保温泉と四万温泉。来週行く」
真面目だなあ、と感想をこぼしながら、一人で行くのだろうか、でなければ誰と行くのだろうなどと考えて、考えているそんな自分に少しイラっとした。
「部活、入らないのか」、「いい」、「趣味とかないの」、「音楽と本」、「喫茶店、人気だってな。よかったな」、「うん」。
「須田君——」、「ん?」、「——やっぱいい」、「なんだよ」。
長野原・草津口駅からは、専用のバスに乗って山道をひたすら登って行く。上り坂がずっと続く。バスターミナルに着いて下車すると、ひんやりと涼しい風が頬をなでた。下界とは気温が10℃近くも違うらしい。夏目がボソッとそんな豆知識を披露した。
草津温泉、と言えば〝湯畑〟らしい。らしい、というのは、実は僕も初めてここに来たのだ。灯台下暗しとは恐ろしく、名所もことごとくスルーして生きてきてしまう。
湯畑とは、読んで字のごとく、湯の畑だ。木の枠で仕切られた中に温泉が湧き出ていて、それが理路整然と並んでいる。時代を感じさせる石灯篭も立っていて、この湯畑全体が草津のシンボルとして存在している。湯畑は緩やかに傾斜しているから、その端からは湯気を立てた温泉が流れ落ちて小さな滝を形成している。
リュックをガサガサ探っていた夏目が、不意に取り出したのはカメラだった。それを僕に手渡す。
「須田君はカメラマン」
簡単に操作を教えられ、とにかく色々撮れと命じられる。アングルも何もお構いなしで、とりあえず目の前の名所にピントを合わせた。
そんな湯畑を取り囲むようにして旅館や飲食店、土産物屋が林立している。その中の一軒のそば屋で天ざるそばを食べた。夏目は鴨南蛮。ズルズル啜る音だけが二人の間に流れる。
「この後の予定は?」
居たたまれなくなって、目の前の我が道をゆくリーダーに確認する。つゆを啜りながら上目遣いで僕を見ると、コトンとどんぶりを置いて夏目はリュックからガイドブックを取り出す。間近で良く見ると、表紙が結構ボロボロだった。どれだけ読み込んできたのだろう。
「夕方の回の湯もみショーまで時間があるから、カピバラ見にいく」
湯もみショーというのは、湯畑に隣接する建物の中で行われるショーとのことで、それ以上の詳細は与えられなかった。僕には草津の知識がない。皆無である。灯台下暗し。リーダーが情報を与えてくれなければ、謎は謎のままなのだ。携帯を使って調べることでもないから、いずれ分かることと思ってあまり追及はしなかった。そしてお次はカピバラだ。
草津熱帯園行のマイクロバスには、僕たちの他に小さな女の子を連れた家族ずれと、大学生くらいのカップルが乗っていた。僕たちは周りからどんな風に見られているのだろう、と車窓を眺め続ける夏目の隣りでぼんやりと考えていた。そうしているうちにバスは熱帯園へあっという間についてしまった。
古い。
パッと見たままを言ってしまえば、なんだかとっても古い。そこにある様々なオブジェクト——正面入り口の看板だったり、建物を支えている柱や壁に至る全て——が歴史を感じるほどに時を経て色あせている。けれどそれがこの温泉地の観光施設に〝いい味〟を加えている。
熱帯に住む生き物。大蛇やワニ、極彩色の鳥。その他多様な動物が飼育されていて、見ごたえがあって飽きなかった。外には猿山すらある。そしてカピバラ。夏目はカピバラの赤ちゃんに夢中になってずっと眺めていた。笑った顔を初めて見た。学校ではたぶん一度として見せてはいないだろう。僕はカピバラを一緒になって見ているフリをして、夏目の微笑みを横目で捉えていた。もう少し僕に勇気があったら、きっとそんな夏目の横顔を携帯のカメラで撮っていたかもしれない。
勇気のない僕は、夏目のカメラでとりあえずカピバラを色んなアングルから撮り続けた。
熱帯園を出てマイクロバスで湯畑まで戻ると、その足で西の河原公園へ向かう。小川のように温泉が流れていて、そこに足湯が設えられている。せっかくなので浸かることにした。
余程気持ちが良かったのか、湯に足をつけながら明後日の方向をぼんやりと眺める夏目。
「どうよ、感想は」
彼女は僕に向かって右腕を伸ばし、そして親指を立てた。グー。
——なんか、いい奴だな。
ふっと、そんなことを思った。僕の周りに広がる自然と、足湯と、それから本来持っている素直な感情を少しだけ露わにして目の前にいる同級生の女の子。知らなかったことがいっぺんに僕の方へ流れ込んできて、溶け込んで、そして僕は夏目美月と出会えたことを、なんとなくだけど、嬉しく思った。
湯もみショーが始まると、耳元で夏目が「写真、忘れないで」と指示を出す。
奥からぞろぞろと、揃いの着物を着た女性たちが現れる。建物の中央には、湯気を立てている温泉がある。そこに、長い木の板を入れて一斉に歌を歌いながら混ぜるのだ。木の板が温泉の縁に当たる「コンコン!」という高い音が、歌のリズムに合っている。歌に合わせている。
色んなアングルで、とは今回はできないので、席から何枚か写真に収める。
続けて、湯もみ体験の時間となり、実際に板で湯を混ぜることができた。思っていたより重くて驚いた。笑い声が色んなところから聴こえてきて、場内は温泉の熱気もあって身体が熱くなってきた。夏目も熱心に話を聞いていた。これで充実した自由研究が作れるだろう。僕は自分の自由研究をどうするかなどすっかり忘れて、夏目の研究を一緒になって楽しんでいた。瞬く間に一日が過ぎていく。楽しい時間は本当に瞬き一つで終わってしまう。
家族に土産を買って、帰路に着く。
高崎駅の改札を抜けて構内を出ると、外はもう暗くなっていた。腕時計は午後七時半を過ぎていた。
ふと見上げた夜空に、薄黄色に輝く三日月が浮かんでいた。
ポンポン、と腕を叩かれる。
隣を見ると、夏目が指を差している。その方向に目をやると、あったのはベンチ。そこに座ろうと言っているのだろう。そちらに向かって歩き出す。
人ひとり分あけて、僕たちは腰を下ろした。
沈黙が続いた。時間を計っていたとしたら、きっと一分間かそこらだったのだろう。黙って三日月を見上げるだけの僕にはもっともっと長く感じた。沈黙の幕は夏目の声で破られた。
「今日は、ありがと」
囁くような、けれどいつもの硬質な響きではない。やわらかい声音だった。
「写真、うまく撮れてなかったらごめんな」
「大丈夫」
何がどう大丈夫なのか良く分からなかったのだけれど、とりあえず頷いておいた。
夜風が心地よい。連日の熱帯夜も、今夜はなりを潜めているようだ。夏夜の小休止といったところだろうか。
須田君、と呼ばれて夏目を見た。それまで自分の足元に視線を落としていたはずの彼女が、真っすぐに僕の方を見つめていて、思わずドキリとした。両頬が引き攣るのを感じた。
「須田君、あの時のこと、ずっと謝らないといけないと、思って。ごめん、なさい」
そう言うと、立ち上がって頭を下げる。
なんだどうしたと固まる僕。こいつの悪い癖なのだろうか。いつだって唐突。
僕は記憶を急いで辿る。〝夏目が謝るようなこと〟で絞り込むと、大体わかった。夏目もダメ押しのヒントのつもりか、一言だけ口走った。
「月の爆撃機」
あの、『中途半端にやったらゆるさない』発言のことだろう。寧ろそれしか思い浮かばない。それだけ僕らには今日まで接点という接点がなかったのだから。
とりあえず僕は夏目をベンチに座らせると、あの発言の真意を聞いてみることにした。しばらく考え込んだあとで、夏目は話し始めた。
「——月の爆撃機、中学の頃に知って、好きになって、それからずっと聞いてて。そしたら廊下の掲示板に貼られてたライブのチラシに『月の爆撃機』ってあって。須田君の名前もあるし。なんかワクワクしてきて。生で、バンドの音で、聴けるんだって。それで、とにかく須田君になにか言おうって思って。なにか言おうって思ったら、急に真っ白になって・・・」
それで口をついて出てきた言葉が、『中途半端にやったらゆるさない』なのだ。どこをどうやったらワクワクした気持ちがそう変換される!
急に笑えてきた。神妙な面持ちで小さくなっている目の前の夏目にも、あの日の不器用にもほどがある夏目にも、呆れて笑ってしまったのだ。ひとしきり、満足するまで僕は笑い続けた。
「わりぃ、ツボっちまった。——とりあえず凄いよ、夏目は。なんとなく、あの時の夏目の気持ち、今は分かる気がする。何にせよ、楽しみにしててくれたんだな。よかったよ」
「あれで嫌になったんでしょ?月の爆撃機、やるの」
これはこれは。そうきたか。どうやら次は僕の方が種明かしをしないとならないみたいだ。
「違うよ、それは。うちのベースがさ、ライブの一週間前に自転車で転んでさ。左手首骨折しやがったんだ。そんで急遽別のバンドのベーシストに掛け持ちさせたんだ。そいつ、ブルーハーツだったら1000のバイオリンならすぐに弾けるっていうからさ、仕方なくそっちに変えたってわけ。ボーカルなんてずっとブーブー言ってたよ。月の爆撃機が歌いたいって。だからさ、夏目が原因じゃないんだ。勘違い勘違い」
ハアーっと大げさに、夏目はひとつ溜息を吐いた。
「言葉が足りなかったり、間違えたり。小学生の頃から、ずっとそう。だから、勘違いされるし、勘違いもする」
夏の〝秘密のばらし会〟は続く。
「嘘つくよりはマシだろ。惜しいだけ。あと一歩足りないだけじゃん」
何の気なしに言ったことだったが、夏目は目を丸くして僕を見つめた。
「なに?」
ハッと我に返った様子で、首を振る。
「——もうひとつ、いい?」
正体不明だった夏目が少しずつ身近な存在になることが楽しくて、僕は黙って頷いた。
「変なこと。ずっと、ツキに囲まれてて、何だか縛られてるみたいで、自由に動けない」
「——ツキって、あれ?」
僕はさっきから同じ場所に浮かぶ三日月を指さした。頷く夏目。
「美しい月、美月。名前。うちのお店の名前、ブルームーン。それと、お母さん」
お母さん?何だか分からない。
「須田君、知ってる?人って、死ぬと月に行くんだって。月は死んだ星だから、死んだ人は月に吸い寄せられる。そうなんだって」
初めて聞いたことだったから、僕は首を振った。
「お母さん、満月の日になると、月を見てそう言う。死んだ兄貴に会える日なんだって」
——兄貴、小学生の時に交通事故で死んじゃったんだ。
「お母さん、言うんだ。美月はお兄ちゃんに似てるって。髪の毛が短いと、そっくりだって。お兄ちゃんがいるみたいだって。だから髪、伸ばせない。ずっと、これ」
夏目はそう言って自分の髪を右手でワシッと掴んだ。話の最後は涙声になっていた。
急に腹が立った。それが一体何によるのか、全然分からないまま、イライラとして拳を握った。ただ、夏目に対して腹が立ったわけではないことだけは確かだった。
「だから、月の爆撃機。いつか、月を爆弾で壊してくれる。めちゃくちゃにしてくれる。爆撃機が飛んで来て。あの曲を聴いてる時だけ、そんな気持ちになれるんだ」
そんなこと、起きるかよ。
「なぁ、夏目。思ったんだけどさ、そんな檻、飛び出しちゃえよ」
檻。檻ってなんだ?と自分でも思ったのだけれど、他に言葉の選びようがなかった。夏目を捉えて放さない檻。名前や家族、それから彼らとの〝思い出〟。うまくは言えないけれど、夏目を縛り付けるものから解放できるのなら、僕は——。
——けれど夏目は、前を向く。
「今日、こんな自分でもいいのかもって、少し思えた」
爆撃機なんて来なかったけど、ただ温泉街をぶらぶらしただけだけど。
「そっか。じゃあ、一歩前進じゃん」
僕は笑った。つられたのか、夏目も微笑んで頷いた。
「来週、伊香保温泉と四万温泉、行こう」
夏目の口から、ごく当たり前という風に出てきた言葉に、僕は〝なあんだ〟と、肩の力が抜けていくのを感じた。
「オッケー」
それからようやく僕たちは、向かい合う互いの家へと、歩き始めた。
* * *
「で?」
充分過ぎるほどの時間を待って、出水は須田に声を掛けた。
「え?」
疑問に疑問で返す須田。
「それから、どうなったのよ。めちゃくちゃええ感じじゃん。スダちゃんよ、もったいぶらないでさ。あるんだろ、続き」
須田は呆れた、という風に溜息を吐くと、残り少ないレモンサワーを一気に飲み干して言った。
「だから、最初に言ったじゃないっすか。恋バナじゃないって。思い出話ですよ。月の爆撃機にまつわる、ただの思い出話!」
不意に後方の座敷がざわついた。一本締めをするらしい。みんなワイシャツにネクタイ姿で、会社の打ち上げか何かのようだった。
「・・・宴もたけなわっすね」
須田がポツリと呟いた時だ。カウンターに置かれた須田のスマホから通知音が流れた。画面をタッチして固まっている。メールか何かのようだ。
よーお、パン!と揃ったところで、拍手喝采。もし自分が就職していたら、と〝たられば〟の自分の姿を彼らに重ね合わせた水出が、なんだか酷くいたたまれなくなってその光景から目を背けたのと、須田が勢いよく椅子から立ち上がったのはほぼ同時だった。
「出水さん、すんません。今日は帰ります」
突然のことで出水がキョトンとしていると、スマホの画面を見つめたまま須田は椅子に引っ掛けたリュックを片手でまさぐり探し当て、フラフラと店の出口に歩いて行く。
「お、おい、スダちゃん。どうしたんだよ急に」
出水の声も聞こえない様子で、そのまま店を出て行ってしまった。
何かとんでもないことでも起きたのか?メールを読んでたよな、あれ。
一人取り残された出水は、釈然としない様子でとりあえず梅酒に口をつけた。今日はもういいか、そんな風に思った。
そこで、大きな音を立てて開かれる入り口の引き戸。暖簾から須田が困ったような顔を覗かせた。そうして小走りに出水のいる隅のカウンターへと近付いてくる。
「すんません、お金、とりあえずこれで」
ヒラっとお札が一枚置かれた。
「ちょっと、多過ぎるよ。いいよ、今日は。急いでるんだろ?大丈夫なの?」
須田は顔の前で手のひらを合わせると、
「この続きはまた今度」
と言って、再び小走りにテーブルの間をすり抜けて、軽やかな足取りで店を出て行った。
(終)
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