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短編小説『白昼夢』─あるいは『檻のなか』
僕の住むこの狭い七畳のワンルームに、間の抜けたような雀の鳴き声が入り込んできた。それと同時に何かすえたような匂いも鼻口を漂っていく。気持ちの良い、とはまるで言えない早朝の目覚めだった。
カーテンの隙間から明けたばかりの弱々しい真冬の陽の光が差し込んできていて、それが瞼に当たっているのが分かる。眩しくて目を閉じたままゆるゆると頭を持ち上げていくと、こめかみが酷く痛んだ。
足元でカチン、と音がしてからコタツのヒーターが切れた。昨夜は両足をコタツに突っ込んで、上半身はテーブルに伏せた状態で寝入ってしまっていたことにそこでようやく気が付いた。目の前には五、六本のビールや酎ハイの空き缶が散乱している。さっき漂ってきた匂いの正体はこれか?
一見して分かるほどに、自分にしては明らかに飲み過ぎていた。
手元に無造作に置かれた煙草の箱から一本を取り出して口に咥えると、その近くに転がっていた百円ライターで火をつけて煙を肺いっぱいに吸い込んだ。と、すぐに吐く。
大して美味いとも感じられないその煙に思わず顔をしかめていると、背後でバサリと音がして布団が勢い良く跳ね上げられた。振り向けばベッドの上で背中を丸め、胡座をかいて僕のことを睨んでいる制服姿の少女がいた。大胆にはだけられた白いブラウスの胸元の浮き上がった血管に、大きくドクンと高鳴った心音。それを気取られまいとして、頬をぷっくりと膨らませているその少女から目を逸らした僕は、不自然に大きな咳払いをして誤魔化した。
「身体に悪いんだから、タバコなんてやめなよ」
と、母親のように小言を口にした少女は、ちゃんと話してみれば先月16歳になったばかりだという。
「人のベッドを勝手に使うな」
「そっちがさっさとコタツで寝ちゃうからですー」
語尾をわざとらしく伸ばしてから、ベーっと舌を出して理由になっていない理由を主張する。少し吊り目がちな大きな瞳、形良く通った鼻筋の下にはぷっくりと肉厚な唇。肩先まで伸ばした黒髪は朝日を浴びて艶々と輝いていた。
「ヒナコかヒナちゃんって呼んで!」
僕が苗字で呼ぶたびに、少女はそう言ってむくれた。余りにも何度も命じられるものだから、仕方なくヒナコと呼んでやることにした。ニコニコと喜ぶ顔があどけなくて眩しかった。ちなみに漢字で書くと『姫奈子』なのだそうだ。
ヒナコとはバイト先で知り合った。
某通販サイトを運営する大企業の倉庫での出荷作業。三十路過ぎのいい歳した男がアルバイトとして働ける場所なんて限られているから、僕もそこで働き始めてからすでに十年近くが経とうとしていた。
入ってみれば意外と若い女の子も多かった。だからヒナコみたいに学校にも通っていないような未成年者が雇われて入ってくるのも別に珍しいことでもなかった。今年の春、そうして小日向姫奈子もまた女の子たちの中に混ざって、その薄暗い倉庫で働き始めた。
かなりコイツは変わっていた。少なくとも僕にとってはそう思えてならなかった。なぜならコイツは僕みたいなつまらない人間にやたらと声をかけてきて、愛想を振りまいたのだ。僕の反応なんていつも「ああ」とか「まぁな」の二通りしかなかったにも関わらず、何がそんなに面白いのか人の顔を見てケラケラとよく笑った。
そんな少女の気持ちが理解できなくて、正直僕は怖かった。それは今でも変わらない。
「末永くん、今日終わったらあいてる?ちょっと聞いてもらいたいことあるんだけど」
一方的なコミュニケーションを図られるようになって半年。一度も気安い雰囲気など見せたこともないのに、ヒナコは僕のことをその時初めて"くん"づけで呼んだ上で、強引にファミレスへと連れ込んだ。それが昨日の夕方のこと。それからもうかれこれ十二時間以上もの間、僕はこの未成年の少女と一緒にいる。
「だいたい何でまだいるんだよ」
ベランダの窓を開けて二本目の煙草に火を付けながら、今はコタツに入ってスマホを弄っているヒナコに向けて苦々しい口調で言ってやった。間髪入れずにジャブが横っ腹に叩き込まれた。
「はぁ?末永くん昨日あたしの話聞いてなかったの?イミわかんない。帰りたくない理由、くわしく教えたじゃん!」
僕の嫌味などそんな逆ギレにあえなくかき消されてしまった。気が付けば僕は、昨夜のヒナコが僕に向かってこぼし続けた少女の独白を、痛むこめかみを片手指で押さえながらぐずぐずと思い返していた。
──母親が変な宗教にハマったせいで高校に行けなくなっちゃったんだ。
──母親がキモいオヤジ連れて帰ってくる。ほとんど毎日。
──母親がそいつにベタベタしてて。キモいんだよ、ババアのくせに。
──そのオヤジがさ、あたしのことジロジロ見てくんの。あーキモすぎて吐きそう。だからさー。
「だから、帰りたくない。あんな奴らのいる家になんて」
ヒナコがそう吐き捨てるように呟いたのは、コタツ布団に半分顔を埋めながら寝転んだこのアパートの一室。ファミレスで嫌と言うほど職場の愚痴を聞かされた僕は、コンビニで酒をしこたま買い込んで、部屋に帰るなり無心でプルタブを上げた。そして当のヒナコはとうとうこの部屋にまで僕にくっ付いて上がり込んでしまったのだった。警戒心も何もあったもんじゃない。
ふと疑問が浮かぶ。
なぜヒナコは付いてきたのか。
そして。
どうして僕はこの"訳あり"を拾ってきてしまったのだろう・・・・・・。
「何で僕なんだよ」
囁くような独り言をヒナコはしっかりと聞いていたようで、「それな」とほとんど被せる様に言い切った。僕の方が面食らって目を丸くしてしまった。
「自分のこと"ボク"って呼ぶところ。それと童顔なところ。優しそうじゃん?末永くん」
反応に窮して黙り込んでしまった僕の目をジッと見つめて、急に真剣な面持ちになってスマホをテーブルの上に置くヒナコ。
「ねぇ、末永くんのことも教えてよ」
「──僕の、何を」
唾が喉に絡んでうまく声が出せない。同時にドクンと心臓が一度高鳴った。
コタツから出て立ち上がり、そのまま窓際に佇む僕の元へと近付いてくる。狭いワンルームだからあっという間にヒナコは僕の目の前に立ち、僕の指から煙草と灰皿を取り上げてそれをテーブルに置く。それから一度大きく両手を広げたと思うと、おもむろに僕の身体に抱き付いた。何かの甘い香りが鼻口をくすぐった。
身長がほとんど変わらない二人だ。ヒナコは僕の耳元に唇を寄せると、吐息を吹き付けるようにして、
「全部」
とだけ囁いた。また心臓が強く跳ねた。
部屋中に、あの底抜けに明るい笑い声が響き渡った。一体いま何が起こっているのか、その状況について行けていない自分がいた。
「なーんてね。ドキドキした?ドキドキしたでしょ?あたし女優になりたいんだよねー。ね、末永くん、なれるかな?あたし女優に」
目の前で楽しそうにはしゃぐヒナコを眺めて、なぜだか僕は腹立たしさよりも疎外感を感じていた。この世の中にひとり、自分の心だけがこのアパートの部屋に取り残されてしまったかのような、救いようのない疎外感。
俺は知っている。この疎外感の生まれた場所を。そこは薄暗く、汚いマンションの一室だ。ほとんど身動きが出来ない障害者の父。ほとんど"モノ"みたいにただそこに横たわり、時折呻き声を上げている。それを慣れた手つきで世話をする母も脚に障害を持っている。『なに見てんだよ役立たず』
醜い化け物みたいな形相の母らしきモノが俺に罵声を浴びせかける。そうして俺は押し入れの中に逃げるように隠れた。真っ暗い、檻みたいなあの押し入れの中に──。
それは疎外感の既視感。
「末永くん?おーい。怒った?」
ヒナコが僕の顔の前で手のひらを左右に翳していた。真冬にも関わらず、額にはうっすらと汗が滲んでいる。僕はヒナコを脇に押し出す様にして歩き出し、力無くベッドに腰を下ろした。そうしてそのまま無心になって虚空を見つめていた。部屋の隅に突っ立っているヒナコの存在を、その間すっかり忘れ去って。
一体どのくらい、僕はそうやって放心していたのだろう。ふと我にかえって気になったものの、時計を見遣る気力もなく小さな溜息を一つ吐いた。
「あ、戻ってきた」
部屋の隅で唐突に声がしたから思わずギョッと目を剥いて驚いてしまった。
それまで忘れていたヒナコの存在が急激な速度で像を結ぶ。
「ねぇ末永くん。あたし海に行きたい!」
あ?
掠れた声で聞き返した。その途端。
「やっぱり。末永くんなんで驚くとあそこ見るの?」
──あそこ?
唖然としてヒナコを見返すと、ヒナコは左手の人差し指で対面する部屋の隅を指差した。ゆっくりと視線をそれに這わせていく。
小さなクローゼット。
押し入れ。
檻。
「昨日もお酒飲みながらたまにチラチラ見てたし。あたしがからかった時も。見てたよね、あそこ。さっきも黙ってずーっと見てたよ。気付いてなかったの?変なの」
ずっと、見てた?
お前は俺を、ずっと見てたのか?
「ねぇ、末永くん。あの中に何かいるの?」
──今、なんて?
「ねぇ、末永くん。行こうよ、海。あ、ほらまた見た。いいでしょ?車持ってるんだからさ。あの水色の小さい車、かわいいね。なんていう車?もう!こっち向いてよ、末永くんってば!」
──なんて言ったんだ、コイツは。
「ねぇ、末永くん。もう花蓮さんのこと、忘れちゃいなよ。あたしとこれからいっぱい遊ぼう?」
コトリ、と部屋のどこかから微かな音が聞こえて来た気がした。たぶん、音はあそこから──。
僕の住むこの狭い七畳のワンルームの片隅にある、小さなクローゼットから目を離す。一年前に死んだ彼女の名前を口にしたその少女の姿を、霞んだ僕の両目が薄ぼんやりと捉えていた。
* * *
(──何、今の?)
ソレはまるでテレビのチャンネルが唐突に切り替わるように、瞬時にわたしの視界から消えた。今の今まで自分が見ていた映像の内容を余りにも鮮明に覚えていたから、「あれは夢なんかじゃない」とわたしは直感的に悟った。
その時わたしは、ワンルームの部屋の入り口に立っていた。視界に映っていたのは開け放たれたベランダの窓と風に揺れるレースのカーテン。取ってつけたような蝉の声が聞こえて来た。
こめかみからこぼれ落ちた一筋の汗が頬を伝っていく。わたしはそれを手の甲で拭って、そこで自分の右手が握っていたものに改めて気がついた。
『燃える大地』 柊まい
それは書きかけの原稿の束だった。
そこでようやくわたしは覚醒した。
わたしの今いるこの部屋に、まさに今日自分は引っ越してきたばかりで、ようやく大方の荷物の荷解きを終えて一休みしようと作業机の椅子に座ろうとしていたところだったはずだ。玄関に置かれた最後の段ボールから茶封筒にしまわれたこの原稿の束を取り出し、部屋に戻ろうとここに立ったところで──。
わたしはついさっきの一連の光景を目の当たりにした。
フラッシュバック、と言えば良いのか。突然目の前が強烈な光に包まれて目が眩んでしまった。しばらくそのまま目を閉じていると、雀の鳴き声が聞こえて来た。
咄嗟に目を開けると──。
男の人がコタツで眠っていた。ベッドでは女の子が同じように微かな寝息を立てている。
わたしは声を上げることも、ましてや身動きすら出来ずに、ただただ目の前で起きる出来事──つまりは男の人と女の子とのやり取りを傍観し続けていた。
(──やっぱり、夢、見てたんだろうか)
ふらふらとした足取りで作業机の前の椅子に座った。原稿の束を投げ出すように机の上に置くと、しばらくのあいだ呆然と虚空を見つめていた。すると、ふと──。
部屋の隅のクローゼットが気になった。単身者用のこの部屋に備え付けられた小さなクローゼット。
どうして彼らはずっとあのクローゼットを気にしていたんだろう。
(『彼ら』って、わたしなに言ってるの?)
頭は疑問符を打ち続けているのに、身体はなぜかそのクローゼットに吸い寄せられていく。
扉の持ち手に右手をかけた瞬間、再びわたしは真っ白な強い光を瞼に浴びて、そして思わず両目を閉じた。
* * *
── 一年後。
都内の書店で、ある女流小説家のデビュー作出版を祝したサイン会が開かれていた。
低い壇上に置かれた長テーブルに座る彼女のバックには、仰々しいフォントで、
【柊まい『白昼夢』出版記念サイン会】
と銘打たれた横断幕が張られている。
そして手元には、つい今しがた彼女の目の前に立った中年の男性が差し出したばかりの新刊が置かれていた。
【物語はワンルームで完結する!小さなクローゼットから出現する驚愕のラストに再読必至‼︎】
そんな煽り文句が帯に踊る。しかし作者自身は能面のように無表情で淡々と差し出された新刊の見開きにサインを書いていく。余りにも淡白に一連の作業をこなしていくため、傍らのある者は「作風と同様に個性的だ」と敬意を表し、またある者は「変わり者だ」と苦笑した。文壇に突如として現れたこの新人作家は、そのミステリアスな雰囲気をこのように様々なかたちで捉えられていたのだった。
やがて壇上に最後の購入者が上がる。彼女は自分の手元しか見ていない。そこへスッと本が差し出された。
彼女はふと眉根を寄せた。
本が、裏返しに置かれたからだ。それは今日一日を通して初めてのケースだった。
彼女は視線を裏表紙から少し上げる。ミニスカートから覗く生白い太腿が目に映る。そのまま徐々に目線を上げていった。
制服姿の女子高生が立っていた。少し小首を傾げながら、その口元には穏やかな微笑みをたたえていた。けれどその両の目は彼女のことをしっかりと捉えて離さない。
少しずつ、彼女にこの光景の意味が分かり始める。
すると少女が口を開いた。
「クローゼットの中の花蓮さん、あなたのこと好きみたい。よかったね」
彼女はそこで、死ぬまで逃れられないモノの存在を人知れず悟った。
(了)
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