【小説】月の檻 ー前編

 

 ——こいつ、いい奴だな。
 出水亮介は、隣の席でレモンサワーのジョッキをグイッと煽る後輩を眺めながら思った。
 後輩——須田雅孝は、空になったジョッキをテーブルに乱雑に置くと、「すみませーん」と店中に響き渡る大声で店員を呼んだ。
 駅前の居酒屋は週末の喧騒を抱え込んで忙しい。返事はあったものの、一向に声の主は現れない。店の隅のカウンターで背中を丸めて話している、辛気臭い若者たちには気が付かないらしい。
「俺は絶対に許せないけどなぁ。その女」
 店の奥に目をやりながら、須田がポツリと口にした。出水は梅酒のロックをちびりと啜る。出水は下戸だ。グラスの半分ほどを飲んだところで既に顔が火を噴いたように赤く染まっていた。
「あ、来た。すみません、こっち!」
 須田が手のひらをヒラヒラと振ると、ようやく気付いた店員が、この世の吹き溜まりみたいなカウンターの隅に足早に近付いてきた。須田が早口にレモンサワーを注文し、横目で出水を見てから、「あと水も」と付け加えた。
「スダちゃんて、ほんといい奴だよなぁ」
 出水は咄嗟に、彼に対して胸中に想ったばかりのことを口にしていた。
「え?だって、その女。いや俺だって出水さんの元カノのことあんまり悪く言いたくないけど、でもやっぱそいつおかしいですよ。自分から出水さんにコクっておいて、一か月後に〝好きな人ができました“じゃねぇっつうの。しかも好きになった相手が松坂さんとか、頭湧いてるでしょ、完全に」
 出水は、須田のよく気が利くところを褒めたつもりだったのだが、本人はバイト先の先輩の過去の恋バナに、シンクロして憤ってくれたことを感謝されたと受け取ったようだ。しかもさらに輪をかけて憤っている。出水にしてみれば、どちらもありがたいことではあったのだけれど。
 須田は半年ほど前から、出水の働く和食レストランにバイトとして入ってきた。聞けばまだ大学二年生らしい。大学も行かず高卒でフリーターの出水から見れば、彼は後光が差すほど眩しい存在だ。身長はそれほど高くはないが、スリムな体形にキリッとした歌舞伎役者みたいに整った顔立ち。加えて性格も清々しかった。誰とでも分け隔てなく接するため、すぐにバイト仲間や社員たちから気に入られた。
 そんな中でも、なぜか須田は出水のことを特に慕ってくれたのだった。〝出水さんといると落ち着く〟などと恋人のようなことを言われて少しドギマギしつつ、近頃はこうして良く二人で飲みにいく仲になっていた。
「松坂さんにフラれて、ざまあみろって感じっすよ。俺、その女が店辞めてなかったら、ゼッタイ文句言ってやってましたね」
 松坂は三十路の独身社員だ。ゆくゆくは店長になるのではと噂されている堅物だった。
 出水は芝居がかったように鼻を啜ると、
「スダちゃん、ありがとな!そう思ってくれるだけでも十分だよ」
と須田の肩に手をやって何度か叩いた。やがて須田の注文したレモンサワーが運ばれてくると、二人は熱っぽく乾杯をした。
 出水がフウと一度大げさに息を吐き、「まあ昔の話だし」と強引に話の流れを変えるそぶりを見せた。何気ない沈黙が二人の間を流れる。
「あっ」と唐突に須田が声を上げた。出水が彼を見遣ると、須田が天井を指さしている。正確には、天井のスピーカーを。そこからは出水も聞き覚えのある声が聞こえてきていた。
「ブルーハーツか」
 出水が天井を見上げながらそう呟くと、須田は満面の笑みを浮かべながら頷いた。
「〝月の爆撃機〟です。久しぶりに聴いたなぁ。懐かしいな」
 そんな須田の感傷にあまり気を止めずに、出水が話しかけた。
「スダちゃんはないの?恋バナ」
 それを聞いた須田はギョッとしたように出水の顔を見た。
「センパイ、すごいタイミングでぶっこんできますね」
 今度は出水がキョトンとする。
「恋バナなんて感じじゃないですけど、この曲を聴くと思い出しちゃうことがあるんすよね」
 言葉を切ってレモンサワーで喉を潤すと、左手の指を黙ってジッと見つめる須田。細くて長い指。
うらやましいなぁと、太くてごつい指の持ち主は密かに思った。


* * *


 学校から帰宅すると、いつものように二階の自室でエレキギターを掻き鳴らしていた。音が漏れて近所迷惑になるだなんて、お構いなしだ。階下で母親が何か喚いている。アンプの音を下げろとでも言っているのだと思って無視していると、激しくドアをノックされた。
「なに」
 ぶっきらぼうに、怒鳴るようにして返事をすると、母親が顔を覗かせた。降りてこい、と一言。そう一方的に伝え終わると「すみませんねぇ」と階下に向かって大げさに言いながら階段を降りて行った。仏頂面のまま、僕もそれに続いた。
 玄関には、中年の女性と、斜め左に半身を隠しながら短髪の若い男が立っていた。僕と同じ高校生のように見えた。男にしては、やけに細くてなよなよしてる奴だな、と一見して思った。身長は余り僕と変わらない。俯きがちでその表情は良く見えなかった。
「お向かいに今日引っ越してきました、夏目です。この子は〝娘〟の美月です」
 娘?僕は聞き間違えたのかと思って、まじまじとその若者を眺めた。
 アディダスのグレーのパーカーに、ブラックのジャージパンツを履いている。地味な恰好だ。そのパーカーの胸に視線を集中させる。すると、微かな膨らみが見て取れた。
 女子⁉だってめちゃくちゃ短いぞ、髪・・・・・・。
「雅孝と同じ誠和の二年生に転入されるんだって。同じクラスになったりしてね」
 母親がそういうと、夏目と名乗った中年女性はケラケラと笑った。そして〝娘〟を促した。
 渋々と言った様子で頭を軽く下げて、呟くようにボソボソと何か言った。
「——よろしくおねがいします」
 そう言ったのだと気付いたのは、二人が出て行ったあと、バタンと音を立ててドアが閉まってからだった。
 男子みたいな女子。それが僕の、夏目美月に対しての箸にも棒にもかからない、ありふれた印象だった。

 とても驚いたことに、母親の予言は見事に的中した。
 夏目美月は本当に僕のクラスに転入してきた。席こそだいぶ離れてはいたが、向こうも確実に僕の存在に気付いたようだ。挨拶をするために教壇に立った途端に、彼女と目が合った。一瞬目を丸くした気がしたが、見知った顔に出会ったことが後押しになったのだろう。我が家の玄関先に比べれば大きな声で自己紹介をしていた。
 けれど、夏目が僕に話しかけてきたのは、それから一か月以上もあとのことだった。
 その頃の僕は、所属していた軽音楽部の『定期演奏会』という名の、仲間内で楽しむライブに向けて休み時間も削って音楽室でギターの練習をしていた。〝仲間内〟の範囲から抜け出せないのは、バンド数もたったの三つしかなく、ロックバンドをやっているにもかかわらず皆どこか垢抜けない奴らばかりだったから、学内でほとんど固定のファンもついていなかったからだ。自分たちが〝フォークソング研究会〟と呼ばれていることを、部員はみんな知っていたのだ。だから会場も体育館など到底望めるわけもなく、分相応の音楽室だった。
 そんなわけで、クラスメイトたちからも茶化されるのをひたすら耐えつつ、日々練習に励んでいたのだった。
 ある日のホームルーム後。教室の隅に立てかけていたギターを背負おうとしていると、「ねえ」と唐突に声を掛けられた。振り向くと、そこには夏目美月が立っていた。
「つきのばくげきき、やるの?」
 一瞬何のことだか分からなくて、固まってしまった。主語も何もかもすっ飛ばしてこられたら、きっと誰だって「?」が浮かぶ。
 けれど夏目もジッと僕のことを見つめたままだ。右手に持ったギターケースの重みを感じた瞬間に、ようやく気が付いた。ザ・ブルーハーツの『月の爆撃機』。僕のいるバンドが今度のライブで演奏する曲だ。校内の数か所の掲示板に手作りのチラシを貼りだしていたから、それを夏目は見たのだ。そこにはメンバーの名前と担当楽器も書かれていた。
「ああ、うん、そうだけど」
 僕は夏目に話しかけられたということ自体に少し驚いていたから、そんな感じの返答しかできずに再び棒立ちになっていた。彼女はなおもジッと僕の目を見てくる。目力が凄くて、自然と生唾を飲み込んでしまった。
「——中途半端に」
 例のボソボソ声だ。聞き取れなかった僕は、少しきつめに「え?」と聞き返した。
 夏目はそんな僕の態度が気に入らなかったのだろうか、眉間に皺を寄せながら、
「中途半端にやったら、絶対ゆるさない」
 こんな大きな声、出せるんだ。
 何を言われたのか理解できない僕の頭の中には、とりあえずそんな感想だけが浮かんでいた。練習も上の空で、何度も何度も夏目の言い放った言葉を反芻して、その結果僕は、〝夏目美月はヤバい奴〟というレッテルを力任せに貼り付けた。

 一学期の期末テストも終わった七月の半ば、もうすぐで夏休みという頃にライブは予定通り決行された。三組しかないバンドが三曲ずつ持ち寄るから、合計九曲。二番手だった僕らのバンドは、だからあっという間に順番になった。
 目の前には、我が軽音楽部の面々と、両手で足りるほどの男女。ほとんどがそれぞれの友達連中で、今回もご多分に漏れず仲間内ライブであった。たった一人、例外を除いて。
 校庭側の窓際に、ポツンと一人で夏目は立っていた。相変わらずのベリーショートにスカート姿は目立ちすぎるほど目立つ。彼女の存在にはかなり早い段階で気付いていたけれど、僕は見て見ぬふりをした。しかしそれはあくまでも〝ふり〟でしかない。正直、気になって仕方がなかった。夏目の鋭い視線に絶えず値踏みされているかのように感じていた。
 準備ができると、軽快なドラムの音で曲が始まった。それはザ・ブルーハーツの——。

 ——1000のバイオリン。
 他の二曲は流行りのバンド曲のコピー。
僕たちは〝月の爆撃機〟をやらなかった。いや、やれなかった、のだ。
 どうしてだろう、結局僕は最後まで、夏目美月の方に目を向けることができなかった。

 一学期の最終日は、朝から強い雨が降っていた。けれど明日から夏休みだ。誰もかれもが浮かれていた。もちろん僕も。
 担任から放射される〝夏休み中の心構え〟みたいな退屈な話が終わり、いよいよ日直の「起立、礼」の号令が済むと、すぐに教室中がガヤガヤと大げさな喧騒に包まれた。周りのクラスメイトと一言二言言葉を交わして、部室へと向かうためにリュックを背負った。
「ねえ」
 僕の背中に乱暴な声がぶつかってきた。ドキリとして冷や汗が噴き出す。もしかして、また?
 予想どおり、夏目がいた。
 今度は一体何だというのだ。僕は意図的に全身で不信感を発して、身構えた。
「自由研究、手伝って」
 まただ。唐突過ぎるのだ、いつもこいつは。僕は「は?」と聞き返すことしかできない。前回に輪をかけて話の先が見えてこない。
 夏目はそうして一度視線を外して横を向くと、無表情のまま呟いた。
「忙しかったら、いい。——須田君にしか頼めないから、聞いてみただけ」
 言い方!そんな風に言われたら断れない!
 夏目が転校してきて三か月が経っていた。クラスのみんなの様子からは、夏目美月という未知のニンゲンへの接し方が未だ掴めないでいる、という空気が感じ取れた。それは夏目にも多分に問題があると僕は考えていた。近所のよしみで、何だかんだで気にしていたのだ、僕は。
 不愛想。無表情。読書家の孤独家。休み時間はイヤホンで音楽を聴いてることもあった。意図的に人間関係を断ち切っているのだろうかと勘繰ってしまうほど、彼女はいつも一人だった。〝壁〟を感じてしまえば、コミュニケーションを取ることを諦めるのは早いのだ、十代という奴は。
 夏目のキリッと整った眉毛を見るともなく見ていると、何だか悲しくなってしまった。
「暇だよ。いいよ、手伝ってやるよ」
 言ってから、少し自分の顔が赤くなった気がして、慌てて探し物をするようにリュックの中を覗き込んだ。中身なんてスカスカで、なんにも入ってなんていなかったのに。
 夏目の〝須田君にしか頼めない〟というダイヤの原石みたいな言葉の粒を聞き逃すほどに、僕はなぜだかあたふたと舞い上がってしまっていた。


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