「ぼくたちは違うけど認め合おう」|『わたしの美しい庭』

またもや凪良ゆうさんの本を買ってしまいました。「流浪の月」を読んでから、凪良ワールドにハマりっぱなしです。


そんな今回は屋上庭園に「縁切り神社」があるマンションに住む、路有、統理、百音の三人を中心に繰り広げられる物語。

小学生の百音は父親の統理と親子だが、血は繋がっていない。二人で縁切りマンションに住んでいて、統理はこの神社の宮司を務めている。路有は二人の隣に暮らしていて、毎朝三人で一緒にご飯を食べる。統理は移動式バーのオーナーを務めていて、恋愛対象は同性。

そんな三人の暮らしをマンションの住人のおばさんたちや周りの小学生たちは「変わってる」と噂をします。しかし本人たちにとってはこの生活が幸せなんです。

「変わってる」って何なのでしょう。血の繋がらない親子関係を築いてる人たちからすれば、親子は血が繋がっているもんだと思っている人たちは「変わってる」人たちです。同性に恋愛をする人からすれば、異性に恋愛をする人は「変わってる」人です。

「変わってる」とか「普通」って言う言葉って、結局は自分のものの尺度で相手を判断しているにすぎない。でもそんなこと言い始めたら、誰にだって「変わってる」部分を持っていると思うんですよ。例えば、りんごが好きか嫌いか、勉強が好きか嫌いか、ランチに2000円は高いと思うか思わないか。どんなことにだって自分の価値観が存在します。そりゃあそうですよね、だって人間はみんな違うんだもの。

私たちはその「違い」を認めようとする姿勢がまだまだ足りていないのかもしれません。物語にこんなセリフが出てきます。

「できれば『ぼくたちは同じだから仲良くしよう』より、『ぼくたちは違うけど認め合おう』のほうを勧めたい。」(271頁)
ぼくと百音ちゃんは血がつながっていない。他にもいろんな事情があって、これからぼくたちのことをいろいろ言う人がいるかもしれない。でもそれはその人たちの解釈であり、ぼくと百音ちゃんがなんであるかは、ぼくと百音ちゃんが決めればいい。(274頁)
手を取り合ってはいけない人なんていないし、誰とでも助け合えばいい。それは世界を豊かにするひとつの手段だと、少なくともぼくは思っています。(274頁)

今の社会、特に日本社会って、集団意識が強すぎて、自分だけが異なる存在になることを極端に嫌がる。だから人々は噂話をするし、共通の批判の的を作り上げて仲間意識を作る。

そんなことに何の意味があるのでしょう。そもそも、そんなに他人の人生に構っている暇があるのでしょうか。もっと、自分自身にフォーカスするべきだと思うんです。今自分がやるべきことは何なのか。理想の自分に少しでも近づくためにはどうしたらいいのか。その努力を絶えずしていれば、他人の価値観や人生なんてどうにでもよくなる。

自分の価値観を他人に押し付けず、「理解しようとする」のではなくて「認める」ことができる人間になりたい、とこの本を読んで思いました。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?