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言葉が”無意味なもの”を生み出した

現代を生きる私たちにとって、眼前の事物に対して知らず知らずのうちに意味があるのかないのか判断することは一種の生きる術のようになっている。ここで論じたいのはそれの是非ではない。ここから先の文章では、なぜそのような世界の捉え方が存在しているのかについて筆者がふと思ったことを書き留めておく。

当たり前のことなのかもしれないが、言葉というものにはそれが自分以外のものとのコミュニケーション手段であるため予め意味が付与されている。りんごが何かを知っている者同士でしか「りんごを買ってきて」と言われてりんごを買って来れない。仮に「ぺりつを買ってきて」なんて言われたら買いに行くまでもなく「何言っているの?」と問い直すだろう。すなわち言語においては意味のあるものとないものが明確に区別されるのだ。

このような言語における意味の有無が汎化されてしまった結果、現代社会でたびたび耳にする「なぜ学校に行かなければいけないの?」という学校に行く意味を問う子どもの誕生や「なぜ辛くても生きていかなければならないのか?」という生きることの意味についての問いに繋がっているのではないだろうか。これらに答えようとする人もまた沢山いることが書店に足を運ぶとわかる。しかし、個々人にとって納得のいく回答があったとしても万人が納得いくものが必ずしも存在するとは限らない。それが言語における意味の有無との大きな違いであると考える。

かく言う筆者もまた”大学に行く意味”を探している人間である。ただし、それに絶対的な意味を見出すことができるなんて初めから思っていない。その答えが在学中に見つかる可能性も低い。おそらく大学を卒業してから過去を振り返る中で私が大学で過ごした時間を意味付けすることよって、”大学に行く(行った)意味”を結論づけるのだろう。皮肉にも言葉以外の事象についての意味を判断するための評価には、”意味のある”言葉を用いないではいられないようだ。


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