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20210227 ちょっと出かけるのにもカメラをポケットに
今の時期、コートを着ていることが多い。
コートはありがたいことにポケットが大きい。
なので、カメラをポケットに入れていてもあまり抵抗感がない。
なので、右のポケットにはCanon Power Shot SX100 ISとオリンパスXAの二つ。
左のポケットにはリコーオートハーフと手袋と定期入れを入れて。
これだけ入れたら、若干は膨らんだ状態にはなるが、気にしない。
普段は車ばかりだけれど、今日はクリニックに出かけるのも電車で出かけた。
高架工事のための立ち退きが線路沿いに進んでいるのだけれど、自分が使う駅の周囲はまだそんなに立ち退きが進んでいない。
多分最後の方になるのだろうか?
踏切やら、フェンス越しに線路が見えたり、電車が通っていくのを見るのも、10年以内には見られないようになるのかもしれない。
何せ、いつも使う駅は昭和の時代がそのまま残っているような風情が駅の周りにはまだある。
土曜日の昼間だったこともあり、人の賑わいがあったのだけれど、最近はそうしたところにカメラを向けるのも難しく感じてしまう。
だから、差し障りのないところにカメラを向けることにはなるのだけれど。
すごい架線が密になっているのだけれど、電車を走らせるのにこんなに必要なのだろう。
線路を支えるコンクリート造りの枕木(こういう言い方をするしかないんだよな)のど真ん中に、線路敷きのための石ころが一つ。
カラスか何かがいたずらをしたのかな?
なんだか、もうすぐなくなってしまう風景なだけに、色々とシャッターを押したくなる。
当たり前で日常と思っていたものは、時間が過ぎると当たり前でなくなってしまう。
そういう時間の経過というのに、なぜか感情を動かされてしまう。
感傷的になるというか。
そうした時間が過ぎていき、時代が移りゆくところから置いてきぼりになっているような気がして仕方がない。
そこに、焦りがあったりするわけではない。
ただ、良いと思っていたものが消えていってしまうのが、どうもさみしい。
まあ、自分も年を取って変化していっているのだが、その変化に鈍感なのかもしれない。
出会いがあれば、別れがあるのは必定。
別れを極端に恐れている自分がいるのがわかる。
それは、風景でも何でもそんな風に感じてしまう。
自分の居所がなくなってしまうような気がしてしまうのかもしれない。
カメラのシャッターボタンを押しながら、そんなことを考えていた。