デ・パルマ
様々な映画監督のドキュメンタリーがあるが、『デ・パルマ』のインタビュー側の声を消し、監督のみの言葉で構成された作品は珍しい。今作品の構成のおかげで監督の作品の意図や想いが観客側にシンプルに伝わるし、映画を作る上で監督の苦悩が垣間見えて面白い。箇条書きになるが、心に残ったデ・パルマ語録を記す。
“芝居を効果的に見せるために新しい手法を考えた。二つの映像を撮り並べる編集だ。前方を大写しにしつつ画面後方の情報と並列にする”
“セリフのない長回しのシーンには音楽が必要だ”
“我々は製作費として180万ドルを要求したが、160万を提示された。どうしても180万ドルかかるんだと伝えたよ。すると映画会社の人間が私のオフィスを片付け始めた。製作が中止になり、私は家に帰って考えた。これをこうしてあれを変えれば160万でも可能だと。それでゴーサインがでた。結果、180万かかったがね” 『キャリー』
“『スターウォーズ』の製作は同時期でそのオーディションに若手俳優が集まっていた。そこで『キャリー』の出演者を発掘したんだ。エイミー・アーヴィングもその一人だ。レイア姫の候補だったがね”
“私は当初キャリー役にパメラという若手女優の起用を考えていた。彼女とはたくさんのスクリーンテストをしたよ。そんな中、シシーは自ら応募してきた。しかし、テストの日彼女にCMの仕事が入りどちらを優先すべきか私に聞いてきた。私はパメラに気持ちが傾いていたし、他の人もシシーのテストは無駄だと考えていた。だが、シシーはテストを受け、私の心は彼女に決まった”
“かのヒッチコックはこう言った。見せ場ではカメラを移動させるといいとね。私はよく誰も理解できない複雑な画を撮る。例えばここはゆったりとした曲を流す。血の入ったバケツを上から見せてからシシーにズームする。一日がかりの撮影だった。何も分かっていないスタジオの人間には代わりに君がやるか?と言ってやったよ”
“キャリーがみんなを攻撃する時、私は画を分割した。だが、これはアクションに向いてなかった。編集中に分割スクリーンの大多数を削除したよ。アクションとリアクションが何度も続くのはよくない。情報量が多くなってしまうからだ”
“キャリーの続編やリメイクは私も見ている。その監督たちが私が回避した過ちを犯しているのを見るのはいい気分だ。テレビドラマ版は原作に忠実だった。原作のホワイト夫人は心臓発作で死ぬんだ。打ち合わせの時に驚いた。胸をかきむしって倒れる?そんな馬鹿なと。私は刃物を飛ばした”
“映画は完成作品の9割以上が日の目を見ない。プロになれるのは奇跡だ”
“私は批評家とケンカをして映画は話題になった。女性に対する過激な暴力描写が問題になり、私は多くの批判を受けることになる”『殺しのドレス』
“アル・パチーノが熱い銃身をつかむシーンがあった。その時、手にヤケドを負って二週間も撮影を休んだ。その間考えつく限りのことをしたよ。主役の登場しない銃撃シーンを撮ったりしてね。そうして主役の帰還を待った。ある時、スピルバーグが陣中見舞いに来て撮影を手伝った。現場ではとにかく撃ちまくっていたね”『スカーフェイス』
“主人公のエリオット・ネスにはドン・ジョンソンを考えていた。すでに大物だったからね。だが、脚本家のリンソンはコスナーを推した。そこでスピルバーグとカスダンに電話をした。コスナーに任せていいか聞くと、二人とも彼は大物になると断言した。アル・カポネ役にはボブ・ホキンス、ボンドのイメージを払しょくできる役を探していたコネリーやアンディ・ガルシアも配役された。そのうちに私は不安になった。このままだとこの映画は洗練されたイギリスの芝居になりそうだとね。アメリカ的ギャングが必要だった。デ・ニーロは決断するまでに時間をかける。脚本の話をした後、何週間も待たなきゃならない。ギャラは高いぞと彼は言った。実際、法外な額だった。もはや新人の俳優ではないから当然だ”
“階段のシーンを作ったのは汽車での追跡シーンが撮れなくなったからだ。私はスタッフに階段を探させた。頭にあったのは『戦艦ポチョムキン』のベビーカーが階段を落ちるシーンだ”
“コネリーは撃たれる演技が初めてだった。だから私に腹を立てた。ボンドは撃たれたことがないそうだ。1テイク目で彼の目にゴミが入り病院に連れて行った。2テイク目を頼んだら、彼は憮然としてたよ”
“今はまた昔のやり方で映画を作っている。システムの中にいると予算との闘いだからね。私は物事に対する自分の見方を表現するし、その表現は映画の中で繰り返し登場する。それが私の映画だ。ヒッチコックに影響を受けた者は大勢いるが、ヒッチコック主義を追随しているのは私だけだ。彼が編み出した視覚的に物語を語る手法は彼と共に死んだ。私はヒッチコックが開拓したものを実践しつつ、独自のスタイルに組み込んでいる。新しい形にしているんだ。色んな監督を研究し、この年になって思うのは、監督業の最盛期は30~50代の間だということだ。当然その年代を過ぎても映画を作ることはできる。しかし話題になるのは30~50代で作った映画だ”
“映画には自分が犯した過ちが残る。解決できなかったことや手抜きしたことが永久的にね”