見出し画像

映画を食べる:『真実』是枝裕和監督作品

人は、人生の中で、どれだけの嘘を本当のことのように語るのだろう?
この作品を観ながら、そんなことがぼんやり頭の上に浮かんでいました。

もちろん嘘にもいろいろあって、自分の未熟さや愚かさを曝すことから逃げるための嘘もあれば、見栄や気恥ずかしさから素直になれなくての嘘もあるだろうし、誰かの心情に配慮して事実を作り変えるような嘘もある。
 
人間関係がなければ必要としない嘘。その嘘によって、誰かを傷つけたり、縁が切れたりすることもあれば、誰かを救ったり、縁が繋がったりすることもある。
 社会と呼ばれる暮らしの中では、事実の解明が必要とされる場面や出来事があるけれど、真実を「現実に起きた(起きている)こと」とするなら、時として真実を知ることが正解ではないこともあるのではないかと。

作品の登場人物たちが遭遇する「記憶は当てにならない」という感覚。
自分自身が見聞きして、それが真実だと信じていたことも、起きていた出来事の一面でしかなかったのか?と考えるようになっていく印象の変化。
作られたものを見ているはずなのに、これまで思考が及ばなかった視界があったことに気づかされたり、自分自身でも気づいていなかった自分の奥底に眠らせずにいる感情を引っ張り出されたり。互いに互いからの愛や受容を求めながら、互いの願いがすれ違っていたことで、その寂しさを相手に伝わらない態度で表現していることに、本人たちだけが気づけていなかったり。
作品に散りばめられている小さな嘘。それが惑わせる種でもあり、救いの種にもなっていて、どの嘘を真実として選び取るのかは、自分自身の感性に委ねられているように思えました。

是枝裕和監督、カトリーヌ・ドヌーブさん、ジュリエット・ビノシュさん、イーサン・ホークさん...という名前が並んだだけで、私にとっては観る価値あり!と思う作品なのですが、脇を彩る俳優の方々の魅力も、台詞の一つひとつも、時にシリアスに、時に朗らかに、時に謎解きの鍵として、必要不可欠なものばかりだと感じるような作品です。

どんな嘘を誰に言っていたのか?
どんな嘘を誰が真実としたのか?
それは、なぜか?
そんなことを、観終えた後に考えてみるものいいかもしれません。

一度観て、もう一度観たくなって、何年か経ってもまた観たくなる。
そういう作品が、鑑賞者にとっての好きな作品として人生の一部になるのでしょう。
自分自身が体感して、自分自身にとっての真実となる。
誰にとっても変わらない真実ではなく、自分自身の真実であること。
そのことに気づいていたいと思える作品でした。





いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集