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デジタル時代の子育て〜感性3〜

書物の上にへばりつけさせられたことのない彼の顔は、全く前屈(まえかが)みに俯(うつむ)いたりしない。彼には「顔をあげなさい」と言う必要はない。恥じらいや恐れでうなだれたことは一度もなかったのだ。(OCⅣ420)

永見文雄 世界の思想シリーズ『エミール』

自分の子どもたちが何度「うなだれた」だろうかを考えたことがなかった私は、この記述を見てハッ😱とさせられました。書物の上にへばりつけすぎると前かがみにうつむくようになる、と示唆している点も、時代を感じます。

スマホやタブレットに齧り付く子どもたち。「ゲームやアプリまで作るんです、すごいですよね。」と伝えようもんなら、ルソー先生はなんと仰るでしょうか。考えてしまいます(笑)。

と言うわけで、感性の鍛え方に入ります。

「夜の遊び(Les jeux de la nuit)」 la nuit =夜    les jeux=遊び

何をイメージしますか。

夜であることがポイントなんですが、夜=暗い
前回引用した部分を読まれて、頭がキレる鋭い方はピンときていらっしゃるかもしれません。

人は視覚に多くを頼っています。しかし視覚は広がりがあり、ゆえに間違いを起こします。だから、まずは視覚以外の感覚器官を鍛える必要があること説いています。

視覚が働かない真っ暗な夜に灯りを持たずに、墓地を通って教会堂まで行く

視覚が働かない夜の闇の恐怖を実地に体験させる遊びだそうです。
怖過ぎませんか、ルソー先生。

触覚など視覚以外の感覚の訓練の他にも、闇に対する恐怖心を克服する効用がある。

もっぱら恐怖心の克服が試されている気がしているのは私だけでしょうか。
はい、これから先生に叱られていきますよ。

情念に火をつけるのは想像力である。
習慣はその想像力を殺してしまう、したがって闇に慣れれば自ずと恐怖心もなくなる。

なるほど、恐怖心という情念は想像力でによるもので、
習慣化することでつまらぬ想像をしなくなるでしょ、と言うことですね。一体、何日くらいで慣れることができるのでしょうか。

もう一つ紹介されている例が、

「かけっこ」

夜の遊びのハードルの高さに少し心が離れていましたが、これなら出来そう・・・と思いきや、あくまで視覚を鍛える訓練です。
ポイントは、走る距離をそれぞれあえて違うようにします。しかもそれをわからないように設定し、距離の違いを気づいた子には、一番短い道を選ぶように伝えます。

「視覚によって距離をもっとよく推定する練習をするようになった。・・・何ヶ月もの間試練を積み、間違いを訂正した結果、彼は素晴らしい視覚の物差しを作り上げた・・・彼は測量士の側鎖とほとんど変わらないほど正確に目測するようになった」(OCⅣ395〜396)

あとは、眼と腕を鍛えるためには「テニス」が良いこと、
食事についても、「あっさりとした味のできるだけ単純な食物がいい」など。

今日の内容で、感性の最初に引用した、
以下の内容がはっきりしたように思います。

「感覚を訓練することとは、単にそれを使うことではない。感覚を通して正しく判断することを学ぶことであり、いわば感じることを学ぶことである。」

これを読んで、自分の幼児期を思い出しました。

小さい頃、モンテッソーリの幼稚園(「子どもの家」)に通っていました。
そこでは、集団保育が全くなくて、個々人で「おしごと」(遊び)を探します。その遊びの中に、

・目隠しをして、袋の中から同じおもちゃを探し当てる(触覚)。
・水を舐めて、塩水、砂糖水、酢など、の入った水を探す(味覚)。

などをやっていました。特に、水舐める遊びは好きすぎてTVにも出たくらい(少し変ですよね、笑)。記憶がぼんやりしていますが、おそらく他の感覚器官を鍛える「おしごと」(遊び)もあったと思います。


経験が意味を持ってくるって、ワクワクしてしまいます。
周りに感謝する瞬間であり、愛を感じる瞬間でもあり、私が学ぶことに惹かれてしまう理由かもしれません。

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