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宮沢賢治の分身散体願望とコスモポリタニズム——真木悠介『自我の起原』を読む

どんなナショナリズムも、愛をエゴイズムに転回する装置である。
家族という共同体の愛/エゴイズムは、あらゆるナショナリズムの元素態Elementarformである。
賢治の時代の日本社会で、たとえば直接に類的なものに、あるいは直接に超類的な存在の方向に生きようとする人間は、家族の中で「自分勝手」「エゴイスト」とみなされていた。人間の歴史の中のどの社会でも、共同体をこえるものの方向に生きようとする人間は、共同体から、(つまり家族や、職場や、国家や、党派や宗教から)「自分勝手」「エゴイスト」とみなされることになる。共同体のエゴイズムが、共同体を超えようとするものをエゴイズムと名づけるのである。
家族という共同体のナショナリズムから、コスモポリタン(宇宙市民)として亡命しぬくということに、賢治の禁欲の思想としての眼目はあった。
性は、〈自我〉を裂開する力だけれども、また限定する力でもある。
賢治が〈禁欲〉という戦略をとおして斥けたのは、性の回路の張りわたす、共同体の「愛」という名の排他の力だ。

真木悠介『自我の起原——愛とエゴイズムの動物社会学』岩波現代文庫, 岩波書店, 2008. p.189-190.

見田宗介(みた むねすけ、1937 - 2022)は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。学位は、社会学修士。専攻は現代社会論、比較社会学、文化社会学。瑞宝中綬章受勲。社会の存立構造論やコミューン主義による著作活動によって広く知られる。筆名に真木悠介がある。著書に『現代社会の理論』(1996年)、『時間の比較社会学』(1981年、真木名義)など。

本書『自我の起原——愛とエゴイズムの動物社会学』は、遺伝子理論・動物行動学・動物社会学の成果から、動物個体の行動の秘密を探り、「自我」成立の前提を鮮やかに解明した論考であり、比較社会学の立場から「人間的自我」を探究してきた見田宗介(真木悠介)の快著である。

本書を貫く基礎的なモチーフは何かを、見田宗介(真木悠介)の弟子である大澤真幸氏が「解説」で説明している。真木悠介の探求を駆り立てた問いが、学問の水準というよりそれ以前の、アクチュアルで具体的な「生の水準」で何であったかを知るには、本書に「補論2」として収められている宮沢賢治論が役に立つという。冒頭の引用は、その宮沢賢治論からの抜粋である。

エゴイズムは、人間の原初的な本性であると考えられている。性の領域では、人は、愛する他者のために生きる。とはいえ、愛し合う二人を単位としてみれば、エゴイズムは依然として克服されてはいない。性愛は、むしろ、愛し合う者たちを拡大された「自我」とする強烈なエゴイズムとして現象する。性のエゴイズムを克服する試みとして宗教がある。しかし、宗教は共同体のエゴイズムと一体であり、その共同体の外部に他者や敵をつくる。

だが、真木悠介によれば、宮沢賢治の思想と実践は、不可能なものに思える普遍的な愛の実現に賭けられていたいかなる関係性や共同体のエゴイズムからも逃れ、コスモポリタン(宇宙市民)として生き抜くこと。これこそ、賢治が生涯かけて目ざしたことである。賢治は独身を貫いたが、この性愛の拒絶は、特定の人だけが大事という、「愛」の閉鎖を超克するためであった。賢治の独身は、その外観とは逆に、自分を徹底して開くための戦略であった。

『銀河鉄道の夜』では、乗客たちは、次々と途中駅で降りていく。それは、真木の解釈に従えば、乗客たちが、それぞれ自分の信ずる「ほんとうの神」、自分を迎え入れてくれる「宗教」のところで降り、死んでいくことの比喩である。ただジョバンニだけが、どこにも降りず、最後まで走りぬく。ジョバンニ(=賢治)だけが、宗教的な共同体への誘惑に屈しなかったのである。

賢治に見られるこのような徹底したエゴイズムの拒否は、普通は、人間の自然の本性の否定の上にのみ、つまり人間の原初的な本性を抑圧する超人的な気力や倫理観の上にのみ実現されると考えられている。しかし、真木は、とりあえず賢治にとっては、逆であったと論ずる。つまり、自我を外へといくらでも開こうとすることこそ、賢治の本来の資質(分身散体願望)であり、彼には、自我を特定の宗派や共同体へと執着させる宗教は、拘束衣だったのだ、と真木はいう。

賢治の友人や家族や教え子の記憶の中には、級友がけがをして痛がっていると、賢治が自分がけがをしたように苦痛で顔をゆがめていたことや、何かの罰で水のいっぱい入った器を持って廊下に立たされていた友人の、器の水をあっという間に飲んでしまったということなどがいくつも証言されている。そのように、賢治には、自分の身体の境目を超え出てしまう感受の資質が具わっていたようであり、『よだかの星』や『おきなぐさ』『グスコーブドリの伝記』などにもくりかえし出てくる「分身散体願望」は、彼のこうした感受の資質と一体のものだったのだと、真木はいう。

通常は、自己の性愛やエゴイズムを抑圧するための装置として人は宗教を求めるが、賢治にとっては逆であったようである。宗教という願望の実質として賢治がとらえていたのは、「じぶんとひとと万象と」共に至福にいたろうとする願いのようなものであった。「神」という観念はこの定義になく、また「仏」という観念さえこの定義にはない。それは賢治にとっての原的な願望のようなものである。つまりそれは、人間の個我の欲望の内にある直接に類的な志向、あるいは直接に超類的な志向のようなものだ、と真木はいう。このように直接に類や万象の内に散開し、交歓する欲望にたいして、性愛を通路とする類的な欲望のほうを、賢治は狭いものとして感受していた。

その上で、自我を開放していくこうした傾向が、一人宮沢賢治の特異的な資質ではないということ、動物としてのすべての人間に内具されているはずの性質でもありうるということ、このことを論証してみせたのが、本書『自我の起原』であると、大澤真幸氏は説明する。永劫の旅を続ける生成子(遺伝子)は、生物個体を確かに一時的な集住の場として活用するが、しかし、より基底的には、個体を離れ、また個体を散開する力を発達させる。つまり、自我は、己を外の他者へといつでも開こうとする願望を、その芯の部分に仕込んでいるはずだ、と真木は本書で主張しているのである。

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