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人類学者ストラザーンが提唱した「分人」とは——松村圭一郎氏『はみだしの人類学』より
さきほど説明したように、状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。
ここで重要なのは、他者によって引き出されるという点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。 「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にはあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。
他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。
松村圭一郎(まつむら けいいちろう、1975 - )氏は、日本の文化人類学者、岡山大学准教授。本書『はみだしの人類学:ともに生きる方法』はNHK出版の「学びのきほん」シリーズのタイトルである。
文化人類学には「分人」という考え方がある。イギリスの人類学者マリリン・ストラザーンが提唱した考え方で、パプアニューギニアのハーゲン高地では、西洋社会が前提とする「個人」ではなく、いくつもの人格が織り込まれた「分割可能な複合的な人格」として人間をとらえていると論じている(『贈与のジェンダー』)。
ストラザーンは、ハーゲンの人びとが考える人格は、潜在的に複数の社会関係の源へとたどれるもので、その「分人」のなかの特定の人格が贈り物の交換などをとおして可視化されるのだと主張した。このストラザーンの「分人」は、メラネシア地域では西洋とは正反対に人格をとらえているというよりも、どこであれ近代社会が前提とする「個人」とは対照的な人格のとらえ方がありうることを提示した概念だとされている。
ハーゲンの人たちとまったく同じではないにせよ、私たちも「個人」としてだけでなく、「分人」として生きている。そうした視点で世の中をとらえると、見えてくることがたくさんある。状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、「分人」的な人間のとらえ方である。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。
ここで大事なのは、他者によって「引き出される」という点だと松村氏はいう。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは異なる。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方なのである。
ちなみに小説家の平野啓一郎氏も「分人」の概念を唱えているが、人類学の分人の概念とは独立に考えたもののようだ。彼がいう「分人」とは、複数の自分の姿をたんなる「キャラ」や「仮面」のようなものと考えるのではなく、一人のなかに複数の「分人」が存在しているのであり、そもそも首尾一貫したぶれない「本来の自己」なんてないという考え方である。