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老いることと自己をととのえること——『ダンマパダ(真理のことば)』を読む

この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。
秋に投げすてられた瓢箪のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?
骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。
いとも麗わしき国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。
学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない。(『ダンマパダ』第11章「老いること」)

もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
他人に教えるとおりに、自分でも行なえ——。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己はじつに制し難い。
自己こそ自分の主である。他人がどうして〔自分の〕主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。(『ダンマパダ』第12章「自己」)

中村元『〈仏典をよむ〉2 真理のことば』前田專學監修, 岩波現代文庫, 2018. p.31-32.

ダンマパダ(巴: Dhammapada)は、初期仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム)で伝えた、韻文のみからなる経典である。漢訳は、法句経(ほっくぎょう)。「ダンマパダ」とは、パーリ語で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する。パーリ語仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。スッタニパータとならび現存経典のうち最古の経典といわれている。かなり古いテクストであるが、釈迦の時代からはかなり隔たった後代に編纂されたものと考えられている。

第11章は「老いること」について語られている。どんなに偉い人でもお金持ちでも、悟りを得た人でも、身体が老いて朽ちていくのは避けられない真理である。この真理から目をそらす人は賢者ではなく愚者であり、「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる」。つまり「かれの肉は増えるが、かれの智慧は増えない」。しかし本当に老いることがないのは、善き行ないをした人々の「徳」である。

仏教における老いと無常を悟るための瞑想に「不浄観」がある。自身や他者の生きた身体が腐敗・白骨化していく様を観想し、そこへの執着を断つことを基本とする瞑想である。腐敗していく死体を想像する、あるいはそれを観察する修行というのは非常に激烈なものに思える。しかしそれは、「不浄」の観という言葉が示すように、身体を美しく見るだけではなく、同時に「不浄」でもあるものと相対化してみるための行であり、肉体への欲望に執着することのないようにするためのものである。

ダンマパダ第12章は「自己」について語られる。自己をいかに正しくととのえるか。肉体は無常ではかないものであるが、だからこそ自己の魂をよく「ととのえる」ことが大事である。ソクラテスの「魂を配慮せよ」に通じる教えだと言える。しかし、「自己は実に制し難い」ものである。だからこそ、自分の主になるというのは、非常に修行を必要とする。自分の魂をととのえ、自己をよく守り、そして他人に教える。自分だけ悟りの境地にいればよいというのは間違いであり、周りも一緒に精進するというのが正しい道である。そして他人に教えるように、自分でも行うこと。これも意外と難しい。口では正しいことをたくさん話しても、それを自分で誠実に実行するのが一番難しいものである。これを行うことができるようになれば、自己は「自分の主」になることができるのである。


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