定言命法における「同時に」の重要性——和辻哲郎とカント
和辻哲郎(わつじ てつろう、1889 - 1960)は、日本の哲学者・倫理学者・文化史家・日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。法政大学教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任。『人間の学としての倫理学』(1934年)で新しい倫理学の体系を構築。『風土』(1935年)、『面とペルソナ』(1937年)も名高い。
1931年に和辻が発表した論考「人格と人類性」では、カントの人格論が扱われている。この考察において下敷きにされたのはハイデガーのカント解釈であった。論考「人格と人類性」では、カントの道徳論の中核をなす有名な定言命法の解釈が考察される。当時の定言命法の一般的解釈とは「爾は爾の人格及び他人の人格に於て人間の品位を尊敬し、人格を常に目的として使用し、手段として使用せざれ」というものであった。和辻はこのカントの定言命法の一般的解釈に2つの問題点を指摘する。
一つは、人格と人類性との区別がなされていないことである。2つ目は、手段としてではなく「同時に」目的として扱え、という「同時に」の点を見逃している点である、と和辻は指摘する。
特に第二の問題について、和辻は「個人主義と社会主義との問題」へとつなげている。和辻によれば、もし定言命法を「人格を手段ではなく目的として扱え」と理解してしまうと、「徹底的な個人主義があらわれてしまう」からだという。自分が他人を目的として奉仕してしまうと、そのとき自分は手段となってしまう。それでは「個々の人格はそれぞれ絶対的目的である」という原則が崩れてしまう。カントはそういう意味の個人主義者ではなかったと和辻は考える。
ここで重要なのは「同時に」という言葉である。「手段であると同時に目的であるとして」ということをちゃんと理解して捉える限り、定言命法はむしろ「共同態的法則」といわれるべきものになる。なぜなら人間関係とは「自己目的的に取り扱うと同時に手段としてもまた取り扱う」ときに成り立つからである。自分も、そして相手も、自己目的的な人格として尊重されなければならないが、同時に自分を手段として使役させ、また他人を手段として使役しなければ人間関係は成立しない。このように考えると、定言命法とは人間関係の原則として読まれるべきであり、個人主義ではなく社会主義(共同体主義)をひらくものとして見られるべきである、と和辻はいうのである。
和辻は強調するのは、われわれが今現在、すでに、目的と手段との二重性において「ある」という点である。この二重性という点から見れば、カントの定言命法の一般的な解釈は理念に偏りすぎており、「人類性の物化」という点を見ていないということになる。カントの定言命法を解釈するにあたっての和辻の意図は、人格と人類性との、すなわち「もの」と「こと」との二重性の強調にあった。
和辻の思想は「もの」と「こと」という概念を中心に結晶化されていく。それはまず表現の問題として、ことばの問題としてあらわれてくるのであるが、和辻のなかで、表現の問題は同時に「人格」の問題でもあった。そして、ドイツ留学を経て、カント、ハイデガー、さらには西田幾多郎の影響も受けながら、和辻独自の「倫理学」へと向かっていった。