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固有名として現象する「単独性(singularity)」——柄谷行人『探求Ⅱ』を読む

固有名によって指示される個体性は、一般性(観念または集合)において見いだされるものとは異質である。くりかえしていうように、それは、この個体、たとえば富士山が山という集合に属するということをしりぞけるものではまったくない。また、固有名によって指示される単独性は、一つしかないという意味での単独性ではない。一つしかないからといって、われわれがそれを固有名で呼ぶとは決まっていないからである。あるものの単独性は、われわれがそれを固有名で呼ぶかぎりでのみ出現する。(中略)
さしあたって、われわれは、それを現象学の立場から見てみよう。滝浦静雄によれば、フッサールは、固有名について独特の考え方をしていた。フッサールの考えでは、「固有名は、対象との関係では決して指標ではない」、有意味な記号である。つまり、彼は、固有名がたんなる記述とはちがった目的と機能をもつことをみぬいていた。(中略)
すなわち、固有名が個体を指示するのではなく、固有名を媒介にしてわれわれが個体を指示するのだ。だが、ある語が固有名たりうるのは、われわれがそれによってたんに個体の個体性を指示するのではなく、単独性を指示することによるのだということに注意しなければならない。(中略)
フッサールの考えでは、他者はまずたんなる個体としてあらわれ、やがて他我として構成される。しかし、たとえば、私が他者を知覚し認識するというのと、その者を固有名で呼ぶのとはちがっている。前者はたんに個体としての他者であり、後者は単独性としての他者である。そして、後者がないならば、われわれは「他我」に出会うことはない。

柄谷行人『探求Ⅱ』講談社, 1994. p.29-32.

柄谷行人の『探求Ⅰ』についての過去記事に続き、今回は『探求Ⅱ』について見ていく。『探求Ⅰ』のテーマは「〈他者〉あるいは〈外部〉に関する探求」であった。それがウィトゲンシュタインの言語ゲーム論や、バフチンのポリフォニー=ダイアローグ論から主に考察されていた。『探求Ⅰ』での参照軸は主にウィトゲンシュタイン/バフチン的な言語論であったといえるだろう。

『探求Ⅱ』のテーマはそれを発展させつつ、この問題を別の観点から捉えようとする。それは、「この私」というときの固有名に存する「単独性(singularity)」の問題である。この「単独性」とは「特殊性」とは異なるものである。また、実存主義が探求してきた単独性とも異なるという。この「単独性」の哲学を、柄谷は「固有名」のあり方を中心に考察をすすめていく。その先で主に参照されるのはデカルトのコギトや、スピノザの世界/神(普遍性)の概念である。

「単独性」ということで柄谷は何を言おうとしているのか。それは、万人の「私」ではないような「この私」を、単独性として見ることである。それは一般性の中で見られた個ではない。しかし、単独性としての個体という問題は、もはや認識論的な構えの中では考察しえない。かくて、柄谷はそれを論理学的なレベルに移行させる。つまり、普通「個体性」とわれわれが言うとき、それは個を類の中において見るような思考、すなわち個(特殊性)―類(一般性)という回路の思考にある。単独性は、そのような回路の外にある。それは、孤立した私とか唯一の物というようなものとは関係がない。単独性は、けっして一般性に入らないような「この私」、あるいは「このもの」の「この」を指すという。しかし、それは指示としての「これ」とは違っている。つまり、この「固有名」のあり方そのものが問題とされる

冒頭の引用ではフッサールが引き合いに出される。フッサールは、固有名が単なる記述、あるいは対象を指し示す指標とは全く異なるものであることを見抜いていた。現象学は、主観―客観という認識論的な図式を超克し、我々の意識に現象する存在のあり方を探求する学問である。現象学を創始したフッサールは、固有名の特別な機能に気づいてはいたが、彼の方法論では真の「他者」に出会うことはできないと柄谷は批判する。フッサールの考え方では、他者はまず単なる個体として現れ、やがて他我として構成される。しかし、柄谷の場合、他者に出会うのも「固有名」を通してである。個体としての他者に出会い、それに固有名を名付けるのではなく、われわれは固有名を通して単独性としての他者にまず出会い、それから他者を個体として認識するのである。

あるものの単独性、「この私」というときの「この」性は、われわれがそれを固有名で呼ぶかぎりでのみ出現する。これは従来の言語学では考えることのできない問題であると柄谷はいう。言語学は固有名に無関心であるか、または敵対的であるという。言語において指示対象を扱いうるのは、意味論ではなく、語用論(プラグマティクス)のレベルであると考えられているが、そこでは固有名は「指示」一般に解消されてしまう。これが従来の言語学の方法では、固有名の問題を扱いえない理由である。

柄谷が、単独性の問題を固有名の問題として扱う一つの理由は、それを「実存主義」と区別したいからである。ここで主に批判されているのはサルトルである。実存主義者サルトルは「ユダヤ人とは、他人によってユダヤ人とみなされた者である」と言った。一見サルトルはユダヤ人の(本質ではない)実存を強調しているようにみえる。しかし、サルトルの場合、「ユダヤ人」の代わりに何を代入してもかまわない。サルトルの考えでは、ユダヤ人問題は一般的なものの個別例になってしまっている。一方、柄谷はアーレントを持ち上げている。『全体主義の起源』の記述をひきながら、アーレントが「ユダヤ人の歴史」の特殊性を主張しているのではなく、その逆に、われわれの知る反ユダヤ主義が特殊歴史的にあらわれたものだということを強調する。サルトルのいう対自存在も他者も固有名が欠落しているが、アーレントは個々の人間に注目しないが、「ユダヤ人」という固有名が指示する単独性にこだわっている。そのかぎりで、アーレントは「歴史的」に考えているわけである。

歴史的であることは、固有名と関係していると柄谷はいう。固有名をとってしまった歴史は、「科学」にすぎない。しかし、アーレント的な「歴史性」は固有名と関係しているという。サルトルのいう歴史は、個体がいかに構造のなかで形成され、かついかに構造を乗り越えるかという「一般的」な議論におわっている。しかし、われわれが固有名を通して単独性に出会うとき、そのかぎりでわれわれは「歴史性」に出会う。科学としての批評は、このような固有名あるいは歴史性を消そうとするものである。



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