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最高善としての幸福(エウダイモニア)——アリストテレス『二コマコス倫理学』より

いかなる知識も選択も、ことごとく何らかの善を欲し求めている。だとすれば、われわれがもって政治の希求する目標だとなすところの「善」、すなわち、われわれの達成しうるあらゆる善のうちの最上のものは何であるだろうか。名目的には、たいがいのひとびとの答えはおおよそ一致する。すなわち一般のひとびとも、たしなみのあるひとびとも、それは幸福(エウダイモニア)にほかならないというのであり、のみならず、よく生きている(エウ・ゼーン)ということ、よくやっている(エウ・プラッテイン)ということを、幸福にしている(エウダイモネイン)というのと同じ意味に解する点においても彼らは一致している。

高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.28). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

アリストテレス(前384年 - 前322年)は、古代ギリシアの哲学者である。プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。

アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福(エウダイモニア)、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。

アリストテレスは、倫理学(ethics)を創始した。 一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、エートス(住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を実践哲学として倫理学を確立した。なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名されている。

アリストテレスにとって幸福(エウダイモニア)とは、最高善としての幸福であった。最高善とは何かというと、何らの理由を持たない善である。それをアリストテレスは「即自的に善きもの」と表現している。◯◯だから善いとか、〜〜だから善いという理由のある善は最高善ではない。最高善とは、それ自体で善いものである。それが幸福であると考えた。そして、最高善としての幸福とは、単なる快楽とは異なる。なぜなら、快楽としての幸福も、理由を持つからである。食事が美味しいから善いだとか、気持ちがいいから善いといった風に。

それでは、その最高善としての幸福は、いったいどういうものだろうか。アリストテレスはそれを「人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動」と述べている。快楽ではなく、人間の「卓越性」からくるものというわけである。そのとき満足し、喜んでいるものとは快楽が満たされる身体ではない。卓越性によって喜ぶ魂なのである。



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