![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/170839873/rectangle_large_type_2_5909e6378b5262830dda3f286b2cd8ea.png?width=1200)
ヘーゲルの存在論:現存在は自体存在であり、かつ他在でない存在——川瀬和也氏『ヘーゲル(再)入門』より
ヘーゲルは、現存在についても存在と無の統一が見出されるのだと言う。しかしこれは、「ただある」は「何もない」と等しく、したがって両者は統一されて生成や消滅として理解される、という純粋存在論における「存在と無」の統一とは異なる。これはすでに予告したとおりだ。それでは、現存在における「存在と無の統一」とは一体何なのであろうか。
それは一言で言えば、「何かである」ことと、「何かでない」こととの統一である。例えば「赤い」ということは、青くない、白くない、黒くないということと切り離せない。同様に、「人間である」ということは、犬ではない、爬虫類ではない、無機物ではないといったことと切り離せない。一般に、私たちを取り巻く何らかの現存在は常に何らかのXとして存在する。そしてそのことは、非Xではない、ということと切り離せない。
ヘーゲルの言葉で言えば、現存在は「自体存在」であり、かつ「他在でない存在」である。
ヘーゲルといえば大哲学者である。ヘーゲルと言えば「弁証法」「止揚(アウフヘーゲン)」の哲学が有名である。しかし本当にそれだけなのだろうか。よく言われる「正反合」の弁証法の考えは、一種誤解されており、実は「流動性」という概念において捉えてこそ、もっともよく理解できる。哲学者の川瀬和也氏の最新著書『ヘーゲル(再)入門』は、そのような「誤解」を解きつつ、難解なヘーゲルの哲学を「流動性」をキーワードにして、実に分かりやすく解説してくれている良書である。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)は、ドイツの哲学者。カント、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。彼の主著『精神現象学』は、主観的精神(「意識」「自己意識」「理性」)から客観的精神(「法」、「道徳、「学問」)を経て、絶対知(「哲学」)へと発展する過程を描いている。
本書『ヘーゲル(再)入門』の著者、川瀬和也(かわせ かずや, 1986 -)氏は、横浜市立大学国際教養学部准教授。専門はヘーゲル哲学、特に論理学。英語圏のヘーゲル研究の成果を取り入れ、ヘーゲル哲学が持つ現代的意義を明らかにすることを目指している。日本ヘーゲル学会理事。
引用したのはヘーゲルの存在論に関する部分の解説である。ヘーゲルは著書『大論理学』において、存在論を展開している。つまり「ある」とはどういうことか、という問いである。この問いは古代ギリシア哲学から中世の普遍論争、また近代哲学まで問われ続けてきた問いであるが、ヘーゲルの後には20世紀にマルティン・ハイデガーが『存在と時間』において、本格的な存在論を展開した(『存在と時間』の序論に、ヘーゲルに関する言及がある)。
ヘーゲルは、まず「ただ純粋に存在する」とはどういうことかを問う。つまり「何の規定も持たない」存在である。内側にも外側にも違いのない、のっぺりした「存在」だけがある状態(純粋存在)である。ヘーゲルは、そのような純粋存在は「無」と同じなのだという。ここでヘーゲルが本当に論じたかったことは、「存在と無が一つであること」としての「生成」のあり方である、と川瀬氏は解説する。ここでも「流動性」が鍵になっている。存在するということの本質に、存在と無が互いに生成し合うという流動性が存在するとヘーゲルが考えた。
次にヘーゲルは「現存在」、つまり「規定された存在」としての現存在を考える。「現存在(ダーザイン)」という用語はハイデガーによって、人間存在そのものを指す用法が有名となったが、ハイデガー以前にも、「我々を取り巻いて存在する具体的な諸物」という意味を表す用語として用いられていた。ヘーゲルの「現存在」論では、「何かが規定を伴って現に存在する」とはどういうことか、という問題が突き詰めて論じられる。
純粋存在においては「存在(ただある)」と「無(何もない)」ということが同一性をもち、互いに生成し消滅するという流動性において理解された。現存在においても、同様の流動性をヘーゲルは想定する。それは「何かである」ことと「何かでない」ことの統一である。例えば「赤い」ということは、青くない、白くない、黒くないということと切り離せない。現存在は常に何らかのXとして存在する。そしてそのことは、非Xではないということと切り離せない。このことをヘーゲル流に言えば、現存在は「自体存在」であり、かつ「他在でない存在」である、ということになる。
「自体存在(Ansichsein; アンズィッヒザイン)」とは、自分自身にぴったりくっついた、そのもののもともとのあり方」という意味である。ヘーゲルはそれを「自己関係」や「自己同等性」という言葉で表現している。当たり前だが、机は机であり、椅子は椅子である、ということである。しかしこうした自己関係は、実はそれほど単純なものではない。それは「非現存在の非存在」なのである。つまり、「机は机である」ということは、「机は机でないもの、例えば椅子ではない」ということを含んでいるのだ。
ヘーゲルがいわんとしていることは、現存在が自己関係(「机は机である」)と他者への関係(「机は机ではないものではない」)の両者によって成り立っているということである。つまり、純粋存在のときと同様に、現存在においても「存在と非存在の統一」が成り立っているということになる。このとき、「非存在」すなわち「机でないこと」は、机という現存在の「契機」、すなわちその一部となっている。ここでの非存在というのは抽象的な事態ではなく、より具体的に、椅子や鉛筆といった机以外の物、机にとっての「他者」を指し示しつつ、それを否定している。つまり自己という存在には、他者への関係が契機として含まれているというのだ。
現存在が自己関係であり、かつ同時に他者への関係でもあるということ、これこそが、「現存在における存在と無の統一」である。現存在においては、「何かである」と「何かでない」が統一される。ここでもヘーゲルは、現存在を静止したもの、安定して存在するものとは見ていないということ、つまり「流動性」のうちに見ていることが重要である、と川瀬氏は強調する。ヘーゲルにおいては、この世界のあらゆるものが、他の事物との緊張関係のうちに存在している。さらに、そうした事物を捉える私たちの思考も、常に他の事物とその事物の間を行き来し、流動的になっている。「何かがXとしてある」ということは、「それはXである」ということと「それは非Xではない」ということとの間を揺れ動きながら成立している、というわけである。