クライストの『ペンテジレーア』を読む——ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」と絡めて
ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist、1777 - 1811)は、ドイツの劇作家。その作品は20世紀に入ってから評価が高まり、現代ではドイツを代表する劇作家の一人に数えられている。
フランス現代思想において、近代人の抱える狂気の深層を鋭く描き出し、ポスト精神分析的な問題を提起した文学者として、ドイツ語圏の4人が挙げられることが多い:ヘルダリン、クライスト、ゲオルク・ビュヒナー(1813 -37)、カフカ(1883 - 1924)である。4人ともドイツ文学のメインストリームになることはなく、死後、哲学的に再評価されている。クライストの作品では「言語が人間の運命を左右する」というモチーフがあるが、言語が一見コミュニケーションの手段に見えて、実はその裏で、回復しがたいディスコミュニケーションを生み出し、登場人物たちを自らの内なる原初の暴力と遭遇させる。『ペンテジレーア』は、生成しつつある言葉の行き違いが「思考」を、そして「国家」をも破壊してしまうことをテーマにした作品である。(仲正昌樹氏の上掲書解説より)
この作品はギリシャ神話を元にしたクライストの戯曲で、アマゾネスの女王の娘ペンテジレーアが、英雄アキレスに恋をする。しかし、二人の関係は悲劇的なものに終わり、最後にはペンテジレーアはアキレスを殺してしまう(その「心臓」に噛み付く)。そしてそれを悔いた彼女自身も死んでしまうという物語である。引用した冒頭の文章はその最後、ペンテジレーアが死を遂げる直前の言葉である。
今回読んだのは80年ぶりの新訳で、哲学者・思想家の仲正昌樹氏による訳である。そして最後の仲正氏による解説がめっぽう面白い。特にポストモダン哲学のドゥルーズ=ガタリ(以下、D=G)の『アンチオイディプス』あるいは『千のプラトー』に登場する哲学的概念「器官なき身体」と「戦争機械」に関連させて本作品が分析されている。特に問題となっているのは、ペンテジレーアがアキレスの「心臓」に噛みつき、殺すという描写の場面である。このことに後で正気に返って気付いたペンテジレーアは「接吻(Küsse)と噛みつき(Bisse)、韻が合うではないか」と述べている。
以下に仲正氏の解説を要約する。
人間はときに自分でも理解できないような不条理な行動を取ることがある。そのような行動を、フロイト流精神分析では無意識やリビドーによる抑圧の行動化とみるわけであるが、D=Gはそのような分析を批判した。なぜなら、それは主流と傍流、支配者と非支配者というツリー状構造(幹と枝から成る構造)を生み出すからである。そこでは「幹」である何らかの無意識的な概念が設定されており、それが支配者となっている。あるいは精神分析において何が異常かを決めるのは精神科医(フロイト)である。しかし、人間の精神は「リゾーム」(地下茎)的な構造であろうとD=Gは考えていた。その考えから、人間とはリゾーム的な構造をもつ「器官なき身体」と「機械」のつぎはぎ状の存在と考えていたのである。