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クライストの『ペンテジレーア』を読む——ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」と絡めて

ペンテジレーア「さて、これから私はこの胸の中を、竪穴の坑道を下るようにして降りていき、鋼のように冷たい、私を破滅させる感情を掘り出すつもりだ。その鋼を私の苦悶の炎で浄化し、鋼鉄のごとく堅く鍛えよう。そうやって鍛えた鋼を、それに触れるものは焼けただれてしまう悔悛(かいしゅん)という劇薬にすっかり浸そう。それから、それを希望という名の永遠の金敷に載せ、研ぎ、先を尖らせ、短剣を作ろう。そしてその短剣にこの胸をこうやってさし出そう。そら。そら。そら。そら——もう一回——これでよし。」

ハインリヒ・フォン・クライスト『ペンテジレーア』仲正昌樹訳, 論創社, 2020. p.161-162.

ハインリヒ・フォン・クライスト(Heinrich von Kleist、1777 - 1811)は、ドイツの劇作家。その作品は20世紀に入ってから評価が高まり、現代ではドイツを代表する劇作家の一人に数えられている。

フランス現代思想において、近代人の抱える狂気の深層を鋭く描き出し、ポスト精神分析的な問題を提起した文学者として、ドイツ語圏の4人が挙げられることが多い:ヘルダリン、クライスト、ゲオルク・ビュヒナー(1813 -37)、カフカ(1883 - 1924)である。4人ともドイツ文学のメインストリームになることはなく、死後、哲学的に再評価されている。クライストの作品では「言語が人間の運命を左右する」というモチーフがあるが、言語が一見コミュニケーションの手段に見えて、実はその裏で、回復しがたいディスコミュニケーションを生み出し、登場人物たちを自らの内なる原初の暴力と遭遇させる。『ペンテジレーア』は、生成しつつある言葉の行き違いが「思考」を、そして「国家」をも破壊してしまうことをテーマにした作品である。(仲正昌樹氏の上掲書解説より)

この作品はギリシャ神話を元にしたクライストの戯曲で、アマゾネスの女王の娘ペンテジレーアが、英雄アキレスに恋をする。しかし、二人の関係は悲劇的なものに終わり、最後にはペンテジレーアはアキレスを殺してしまう(その「心臓」に噛み付く)。そしてそれを悔いた彼女自身も死んでしまうという物語である。引用した冒頭の文章はその最後、ペンテジレーアが死を遂げる直前の言葉である。

今回読んだのは80年ぶりの新訳で、哲学者・思想家の仲正昌樹氏による訳である。そして最後の仲正氏による解説がめっぽう面白い。特にポストモダン哲学のドゥルーズ=ガタリ(以下、D=G)の『アンチオイディプス』あるいは『千のプラトー』に登場する哲学的概念「器官なき身体」と「戦争機械」に関連させて本作品が分析されている。特に問題となっているのは、ペンテジレーアがアキレスの「心臓」に噛みつき、殺すという描写の場面である。このことに後で正気に返って気付いたペンテジレーアは「接吻(Küsse)と噛みつき(Bisse)、韻が合うではないか」と述べている。

以下に仲正氏の解説を要約する。

ペンテジレーアの身体は「器官なき身体 Corps-sans-organes」に近い状態にあるのかもしれない。「器官なき身体」とは、器官ごとの機能に分化される以前の身体の状態、母胎と一体となった胎児のような身体の状態である。「器官なき身体」においては、様々な方向性を持った欲動(食べたい、破壊したい、愛したい……)同士の対立による緊張関係は顕在化していない。D=Gは、「器官なき身体」と、成長に伴って私たちの身体の内で働くようになり、様々な欲動を生産/再生産する各種の「機械 machine」を対置する。この場合の「機械」というのは、自動的に同じパターンの運動を反復するユニットである(噛み付く、性行する、etc)。
D=Gは、人間を、一つの人格として身体的に統合されている存在ではなく、「器官なき身体」の上で働く、様々なタイプの「欲望機械」が働くような、つぎはぎだらけの存在と見ていた。ペンテジレーアにおいては、「噛む」ことで栄養を得ようとする「機械」と、「接吻する」ことで性的刺激を得ようとする「機械」が混線して、「身体」全体が誤作動を起こしたと考えることができる。誤作動が止まった後、我に返ったペンテジレーアが呆然として幼児のようになっている場面は、彼女を支配していた「機械」の多くが停止したときに現れた、「器官なき身体」だったのだろう。

上掲書 p.199-204を筆者が要約

人間はときに自分でも理解できないような不条理な行動を取ることがある。そのような行動を、フロイト流精神分析では無意識やリビドーによる抑圧の行動化とみるわけであるが、D=Gはそのような分析を批判した。なぜなら、それは主流と傍流、支配者と非支配者というツリー状構造(幹と枝から成る構造)を生み出すからである。そこでは「幹」である何らかの無意識的な概念が設定されており、それが支配者となっている。あるいは精神分析において何が異常かを決めるのは精神科医(フロイト)である。しかし、人間の精神は「リゾーム」(地下茎)的な構造であろうとD=Gは考えていた。その考えから、人間とはリゾーム的な構造をもつ「器官なき身体」と「機械」のつぎはぎ状の存在と考えていたのである。


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