法然の第一八願と「凡夫」の思想——阿満利麿氏『法然を読む』より
阿満利麿(あま としまろ、1939 - )は、日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授。専攻は宗教学、日本思想史。京都市生まれで、生家は西本願寺の末寺であった。1962年京都大学教育学部卒業。1962年4月にNHK入局。1987年4月明治学院大学国際学部新設に伴い国際学部教授として招聘。担当科目は「民族学(フォークロア)」、「仏教文化論」、「日本文化論」など。国際学部長、大学図書館長などを歴任した。著書は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)など多数。
本書『法然を読む——「選択本願念仏集」講義』の冒頭で、阿満氏は「オウム真理教は、なぜ殺人を容認するようになったのか」という問いに対して、宗教学者・島薗進氏の文章を引用しながら、それは「超人」思想があったからだと説明する。これに対して日本の中世人の思想は「超人」思想とは無縁であったという。阿満氏は中世人の求道は深く強靭であり、その超越的救済論はとても豊かであったという。それは中世人の人間認識の方が、現代人よりはるかに深く徹底していたからではないか。少なくとも中世人にあっては、「超人」に対する深い絶望から出発していたことだけは確かだというのである。
法然にはじまり親鸞にいたる日本の浄土仏教は、これからの人類社会の形成において十分に意義をもつ宗教思想なのであり、浄土仏教は特定の宗派の書物というよりは、日本人が成し遂げた非常に独創的な思想体系であることを阿満氏は強調する。
法然は「浄土宗」を樹立する上で、中国の浄土教思想家・道綽(どうしゃく)の、仏教を「聖道(しょうどう)」と「浄土」に二分する論をふまえて、これからの仏教は「浄土」教でなくてはならないと説いた。「聖道門」とは、釈尊の教えを実践することによって、現世で悟りをひらき仏となることを目標とする仏道のことである。一方、「浄土門」とは、現世で仏になることを断念し、阿弥陀仏の力によって阿弥陀仏の国土に生まれて、そこで仏になろうとする仏教のことをいう。法然は、それまでの仏教を「聖道門」と一括した上でそれを全否定し、新たに「本願念仏」を「浄土門」として、「浄土門」こそがこれからの新しい仏教だと宣言した。
その上で、法然は、中国浄土教思想家・善導の、仏教の行を「正行(しょうぎょう)」と「雑行(ぞうぎょう)」に二分する論を採り、阿弥陀仏が念仏を「正行」として「選択」していることを説く。「浄土宗」の救済原理は、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩という人物が、その実現を誓った願いに立脚している。その誓いは『無量寿経』では、四八あるが、法然がとくに注目したのは、その第一八番の誓いであった。この四八の誓いが「本願」といわれる。本願とは阿弥陀仏(法蔵菩薩)の誓いであり祈りである。「浄土宗」では、人間はもはや祈る必要がない。すべては阿弥陀仏の「祈り」に任せることになるからである。第一八願とは「衆生が念仏するならば、かならず阿弥陀仏の国に迎えとる」ということである。法然はこの第一八願こそが四八の本願の中でも最も根本であるとしたのである。
なぜ衆生が念仏を唱えるだけで成仏することができるのか。そこには法然の深い思想と信念がある。まず、すべての人間には本来「仏性(ぶっしょう)」があるということを前提とする。「仏性」とは仏になる可能性が備わっていることである。ここでいう「仏」とは死ぬことではなく、覚者、つまり悟りをひらいた者のことをさす。「一切衆生は皆仏性あり」とするのは『涅槃経』という仏典に書かれていることである。では、なぜ衆生が「仏性」を持っているのに、輪廻から解脱できないのか。それは衆生にとってもっとも適切で有効な「方法」を採用しないからだと法然はいう。法然においては、救済原理の理解よりも、方法論を優先させる。仏教はまず「行」のあり方によってその有効性を訴えてきた宗教なのであり、どのような「行」、つまり方法論によって〈仏になる〉道を進むのか、それが何よりも重要な課題だと考えたのである。そしてそれは「正行」、つまり称名念仏を実践することが何よりも大事だというわけである。
加えて法然には、人間はみな「凡夫(ぼんぷ)」であるという強い認識があった。凡夫とは煩悩にとらわれて迷いから抜けられない衆生のことである。しかし、法然においては、凡夫はその心がなんであれ、それを隠さずに、そのまま投げ出して往生を願えば、それで阿弥陀仏の本願にかなうと考えた。法然は、凡夫にとって称名念仏という正行の道を行くとき、二つの信心が必要になると説いた。その第一は、自分のなかには輪廻から解脱できる力がまったくないということを心底から自覚し、信じることである。そして第二は、そのような自分であっても、阿弥陀仏の本願力によって救われると信じることである。そして重要なことは、念仏の修行者においては、第一の「信心」の成立がまず必要であり、第二の「信心」の成立はそのあとだという点にある。この順序が逆になる、あるいは第二の信心だけを行くならば、称名念仏は単なる成仏するための「手段」と化してしまうのである。
つまりは、自らは「凡夫」であることの自覚、つまりは輪廻から解脱できるという力がまったくないということの徹底的な自覚があるからこそ、法然の称名念仏、第一八願による救済ということが可能になる。法然の思想においては、この「凡夫」の思想が徹底化されているからこそ、現代では想像もつかないような中世の豊かな人間認識・人間観が形成されていたのではないか。それはオウム真理教で考えられたような「超人」思想とは真逆のものであった、ということを阿満氏は説得力のある書き方で説き起こしているのである。
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