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昭和天皇のお言葉によるコペルニクス的転回——宇沢弘文『経済学は人びとを幸福にできるか』を読む
私は夢中になって、新古典派経済学がどうとか、ケインズの考え方がおかしいとか、社会的共通資本がどうのとか、一生懸命になってしゃべった。支離滅裂だということは自分でも気が付いていた。そのとき、昭和天皇は私の言葉をさえぎられて、つぎのように言われたのである。
「君!君は、経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」
昭和天皇のこのお言葉は、私にとってまさに青天霹靂の驚きであった。私はそれまで、経済学の考え方になんとかして、人間の心を持ち込むことに苦労していた。しかし、経済学の基本的な考え方はもともと、経済を人間の心から切り離して、経済現象の間に存在する経済の鉄則、その運動法則を求めるものであった。経済学に人間の心を持ち込むことはいわば、タブーとされていた。私はその点について多少欺瞞的なかたちで曖昧にしていた。社会的共通資本の考え方についても、その点、不完全なままになってしまっていたのである。この、私がいちばん心を悩ましていた問題に対して、「経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」という昭和天皇のお言葉は、私にとってコペルニクス的転回ともいうべき一つの大きな転機を意味していた。
宇沢弘文(うざわ ひろふみ、1928 - 2014)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められた。シカゴ大学ではジョセフ・E・スティグリッツを指導した。東京大学名誉教授。位階は従三位。
本書『経済学は人びとを幸福にできるか』は、初版2003年の『経済学と人間の心』の新装版として2013年に発刊された宇沢のエッセイ集である。数学から経済学へと専門を移し、アメリカでシカゴ大学経済学部教授までつとめた宇沢が1960年代に日本に戻ったとき、日本は自動車事故や大気汚染、公害問題に苦しんでいた。そこから宇沢は、「現代の貧困」を解決するための新たな研究を開始し、それは「社会的共通資本」の考え方に結実する。
宇沢は地球温暖化問題にも取り組み、彼が提唱した解決策が「大気安定化国際基金」である。これは「炭素税」の考え方を発展させたものである。炭素税は、二酸化炭素の排出に対して、その中に含まれている炭素の量に応じて課税するというものである。しかし開発途上国では、炭素税の支払いの負担が大きくなるため、国民一人あたりの国民所得に比例させるという「比例的炭素税」が考えられた。これを使って、「大気安定化国際基金」を創設すべきだ、というのが宇沢の提案であった。この提言は、2012年に一部ながら結実した。環境省が2012年10月から「地球温暖化対策のための税」を導入したのである。
こうした研究と活動を通じて、宇沢が到達した理論が「社会的共通資本」という概念である。社会的共通資本とは「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のことである。具体的には、大気や森林、河川、土壌などの自然環境と、道路や交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会基盤、そして教育や医療、司法、金融資本などの制度資本から成り立つ。
宇沢がこうした社会的共通資本の考え方に至るために、実は昭和天皇のお言葉が大きな影響を及ぼしたというエピソードがこの本で語られている。1983年11月、宇沢が文化功労者に選ばれ、その顕彰式のため宮中に招かれたときのことである。それは昭和天皇を囲んで、受賞者が一人ひとり自分が何をしたかについて話していくというものであった。宇沢は自分の順番が回ってきたとき「完全にあがってしまっていた」という。そして気付いたら、経済学の専門的なことについて「支離滅裂」に話してしまっていた。昭和天皇はそれをさえぎって、「君!君は、経済、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」と言われたという。
この言葉が宇沢に「コペルニクス的転回」をもたらした。それまで経済学に人間の心を持ち込むことはタブーとされていた。宇沢はそれを欺瞞的な形で曖昧にしてしまっていた。しかし昭和天皇は少し宇沢の話を聞いただけで、宇沢が最も気にかけていたことを喝破して、一言でその核心をついたわけであった。その後、宇沢は「社会的共通資本」の考え方とは、結局、経済学に「人間の心」を持ち込むという命題を中心に据え、その理論を洗練させていったのである。
宇沢が提唱した「社会的共通資本」の考え方は、温暖化問題や環境問題、持続可能な開発目標(SDGs)がまさに全地球的な課題となっている現在、最も必要とされる理論ではないかと思う。その具体的な提案は、例えば「農業にコモンズ(現代版入会地)のような共同体の復活を」とか、「医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせ、最適な医療ができる経済的基盤を」といったものがある。もう一つ、私がとても感心した提案がある。それは「都市に曲がりくねった街路を」というものだ。都市に必要なのは、人間的な魅力を備えたものにするため、まっすぐに伸びた広い道路ではいけないというのである。何よりも「歩く」ことを前提に都市は作られなければならない。道路は狭く、曲がりくねっていて、ひとつひとつのブロックは短いほうが良い。そして、歩道と車道が物理的に分離されていなければならない。このような発想ができる経済学者、それが宇沢弘文という傑出した天才であった。