ハイデガーが見落とした「消えゆく媒介者」——ジジェク『厄介なる主体』を読む
スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949 - )はスロヴェニアの哲学者。リュブリアナ大学教授。ラカン派マルクス主義者として、その多彩な活動は世界の思想界で注目を浴びている。主なる著書に、『斜めから見る』『快楽の転移』『幻想の感染』『脆弱なる絶対』『全体主義』『「テロル」と戦争』(全て、青土社刊)ほか。
本書『厄介なる主体——政治的存在論の空虚な中心(The Ticklish Subject: the Absent Centre of Political Ontology)』は、1999年刊行のジジェクの著書である。本書は「デカルト的主体」というものをめぐっての考察である。ジジェクは、西洋の近代アカデミズムがすべて「デカルト的主体」という亡霊を祓い清めるために同盟を結んできたと述べる。例えば、ニューエイジの反啓蒙主義者(「デカルト的パラダイム」を切り捨て、全体論的な視点に立つ新しいアプローチを模索する)や、ポストモダンの脱構築主義者(デカルト的主体とは言説によってできあがった虚構であって、テクストのしくみを脱中心化した結果と説く)、ハーバーマス流コミュニケーション論の理論家(デカルト的な独り語る主体から、対話の空間を通して形成される間主体性への移行を主張する)、〈存在〉についての考え方を擁護するハイデガー派(近代の主体性は破壊行為に走るニヒリズムへと登りつめてしまうが、その地平を「徹底的に走査する」必要性を強調する)などなどである。
このような事実から、ジジェクは、デカルト的主体は強い影響力を持っており、いまなお現役の知の伝統として、あらゆるアカデミズムから承認されつづけていると説く。その上で本書は、デカルト的主体を再び問い直す試みである。本書は三部構成となっており、第1部ではドイツ観念論の伝統について、第2部ではポスト・アルチュセール派による政治哲学について、第3部においては、大文字で表される〈主体〉から、複数の主体形成とその立ち位置にかんする問題規制へと「脱構築」的に移行する点について議論している。
第1部では、まずデカルト的主体の地平をハイデガーが走査しようとした際に直面した問題について、その詳細を見ている。主体性を議論する大物の哲学者たちは、コギトに内在する過剰な「狂気」の瞬間を解明しようとするのだが、みずからの企図に内在する論理にせきたてられ、そのコギトを再び「正常化」しようとする。ハイデガーにおいても、問題は次の点にあるとジジェクはいう。彼の想定する近代的な主体の概念は、この内在する過剰をとらえきれていない。ラカンは、コギトとは〈無意識〉の主体であると説明するのだが、ハイデガーのやり方では、コギトのそのような面を射程に入れることができないのである。このような読み落としから、ハイデガーがなぜナチに関与したのかという旧知の問題についても、新たな手がかりがつかめるのではないか、とジジェクはいう。
ハイデガーが、現存在が「被投的な企投」をおこない、そして先駆的に決意することで自分たちがいだく歴史の〈運命〉を背負い込むというとき、個人から〈民族〉への移行が置きているが、この個人から〈民族〉のレベルへの移行が根拠としているものは、現象学的な枠では十分にとらえられないとジジェクは批判する。「集団(社会的なもの)として存在する(そこに-ある)ことをしめす媒体が、うまく使われていない」という。個人と集団をつなぐ回路を不正にショートさせてしまうところに、ハイデガーが魅了された「ファシズムへの誘惑」の根源があるというのだ。
ハイデガーが見落としてしまったもの、それをジジェクは「消えゆく媒介者」と表現する。もともと人間の状態とは調和がなく、混沌と過剰の状態なのであり、日々の生活環境に関わることは、その偶然の状況を完全に受け入れる行為によるものである。生活環境それ自体が、根拠のない決定という「過剰」な身ぶりのなかで「選択」されている。とくに人間の次元というのは、限定された生活世界に巻き込まれた主体がいる場ではないし、また、そのような生活世界からまぬがれた普遍の〈理性〉の場でもない。それは、まさにその両者のあいだにある不調和なものであり、それをジジェクは「消えゆく媒介者」と呼ぶ。ハイデガーはこの媒介者を見落としている。ハイデガーは、「被投性」という概念と「企投」という概念をふたつのレベルで使っているのだが、その個人と集合の関係が考慮されていない、その二つの間にある「消えゆく媒介者」が考慮されていないために、個人と〈民族〉の回路を不正にショートさせてしまったというわけである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?