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ただの読書は真の学問ではない——横井小楠の書籍論(大川周明『日本精神研究』より)

さりながら小楠に従えば、読書思索による博覧強記は、決して学問の全体でもなく、また至深の意味における学問でない。殊に書を読むことは学問の至要条件なるかに考えられているが、それは明白に謬見である。『堯舜以来孔子の時にも、何ぞ曽て当節の如き許多の書あらんや。かつまた古来の聖賢、読書にのみ精を励み給うことも曽て聞かず』。  
読書は決して学問に非ざるのみならず、専ら書籍によってのみ学問しようとすれば、却って人心の自由なる発展を抑圧し、往々にして真個の学より遠ざからしめる虞れがある。されば小楠は下の如く言う──『唯だ書に就て理会すこれ古人の学ぶ処を学ぶに非ずして、いわゆる古人の奴隷というものなり。今朱子を学ばんと思いなば、朱子の学ぶ処如何んと思うべし。左はなくして朱子の書に就くときは、全く朱子の奴隷なり』。

大川周明『日本精神研究』徳間書店, 2018. Kindle 版. p.30.

横井小楠(よこい しょうなん, 1809 - 1869)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

冒頭の引用は思想家・大川周明による『日本精神研究』(1924年)からのもので、著者が考える「日本精神」を有する者9名を紹介していく書籍である。その最初が横井小楠である。

小楠は言う。「読書思索による博覧強記は、決して学問の全体でもなく、また至深の意味における学問でない」と。特に読書することは学問の必須条件のように考えられているが、それは明らかに誤りであると。読書は決して学問にあらざるのみならず、もっぱら書籍によってのみ学問をしようとすれば、かえって人心の自由なる発展を抑圧し、真の学問より遠ざからせるおそれがある。

単に書籍を読んで、それを理解するだけならば、それは「古人の奴隷」である、と小楠は言う。そうではなくて大事なのは、その著者が「一体何を学んだのか」を学ぶことである、と言う。「今朱子を学ばんと思いなば、朱子の学ぶ処如何んと思うべし」と。単に書籍の内容を理解することと、その書籍の著者が何を学んだのかを理解することは、似ているようで異なることである。

大川周明は、このことを「書籍の真個の価値は、書籍そのものに非ず、実に之を生みたる精神に在る」と述べている。単に本を読んで、その内容を知識として頭にしまい込むだけならば、それは学問ではない。そうではなくて、その著者がいかなる精神・魂のもとに、その著書を書こうと思ったのかに思いを馳せ、本を読み進めるごとに、著者と同じ思いになって問題を提起し、驚きをもってその解明の跡をたどり、現実の問題に応用して考えることこそが、真の学問である。

真の学問について、小楠は以下のように説いていた。「古人のいわゆる学なるもの果して如何と見れば、全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し、日用事物の上にて功を用ゆれば総て学に非ざるはなし」と。つまりそれは一つの修練あるいは修行のようなものなのであり、良心を拡充して、日々の現実問題に応用して使うことができてこそ、真の学問であると、小楠は考えていたのである。


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