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遅読のススメ——平野啓一郎氏『本の読み方』より

そうしたことを通じて、私は読書の喜びを知り、自分の好き嫌いを知った。しかし、それ以上に学んだことは、ある作家のある一つの作品の背後には、さらに途方もなく広大な言葉の世界が広がっているという事実である。どの一つの連鎖が欠落していても、その作品は生れてこなかったかもしれない。言葉というものは、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点に光を当てたものが一冊の本という存在ではないかと思う。一つの作品を支えているのは、それまでの文学や哲学、宗教、歴史などの膨大な言葉の積み重ねである。そう考えるとき、私たちは、本を「先へ」と早足で読み進めていくというのではなく、「奥へ」とより深く読み込んでいくというふうに発想を転換できるのではないだろうか。

平野啓一郎『本の読み方:スロー・リーディングの実践』PHP文庫, 2019. p.85-86.

作家・小説家の平野啓一郎氏の著書より引用。平野氏は速読ではなく遅読(スローリーディング)を勧める。その理由は、速読は知識のための読書であるが、遅読は「明日のための読書」であるという。つまり、遅読とは知識を追い求めるような読み方ではない。むしろ積極的に「誤読」するためであり、本全体の要約を知るためではなく、本の中のたった一つのフレーズであってもそれを噛みしめ、その魅力を存分に味わい尽くすための読書である。

本には、その作家の広大な言葉の世界が広がっている。「言葉というものは、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点に光を当てたものが一冊の本という存在ではないか」と平野氏は言う。そのとき、速読は知識を追い求め「先へ」と進むような読み方となってしまう。一方、遅読の場合、その広大な言葉のネットワークにおいて「奥へ」と深く読み込んでいくという読み方になるのである。

平野氏は「そもそも小説は、速読可能だろうか?」という問いを投げかける。答えはもちろんNOとなる。小説とは、読む過程を楽しむものであり、その体験こそが読むという行為だからである。なぜ、小説は速読できないのか?それは、「小説には様々なノイズがあるからだ」と平野氏は言う。プロットだけを追ってしまうと小説は味も素っ気もないものとなる。むしろ枝葉としてのノイズがあるからこそ、小説は読んでいて楽しいのである。つまり、私たちは小説を読むとき、細部を捨ててプロットに還元するような読み方はできない。むしろ、プロットへの還元からこぼれ落ちる細部にこそ、注目すべきである。「差異とは常に、何か微妙で、繊細なものである」と平野氏は強調する。

本書の後半では、夏目漱石『こころ』、森鴎外『高瀬舟』、カフカ『橋』、三島由紀夫『金閣寺』などの作品を実際に追いながら、「遅読」をどのように進めるか、積極的に「誤読」し、言葉の「奥へ」と向かう深い読み方を紹介している。例えばカフカの『橋』という作品を取り上げているところでは、「カフカの読み方」とでも言うべきヒントが書かれている。一般的にカフカの小説は難解で、意味がわからないと思われている。それは平野氏でも同じである。一体、この小説は何を意味しているのだろうか!?と平野氏も感じたというところを読み、読者は安心するだろう。しかし、小説の読み方として「意味」を理解するというのが唯一の読み方ではないと平野氏は言う。例えば「違和感」を感じたところを大事にし、そこを掘り下げるという読み方もある。あるいは言葉そのものを楽しむ読み方もある。なぜ他の修飾語ではなく、この修飾語なのか?といった読み方である。結局、小説を読むというのは「誤読」、つまり大胆な自分なりの解釈でよいと平野氏は言う。小説を読むというのは作者の意図を感じつつ、結局はそこに映し出された自分自身を見るような行為でもある、というのである。


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