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ホワイトヘッドと金子ふみ子——鶴見俊輔がみた「経験の中の直観に立つこと」

ホワイトヘッドの講演は、今読みかえすと、金子ふみ子の獄中手記の最後の部分を思わせる。
「手記の後に」と題して、彼女は記した。

「間もなく私は、此の世から私の存在をかき消されるであらう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思つて居る。」(金子ふみ子『何が私をかうさせたか』春秋社, 1931年。復刻版, 黒色戦線社, 1972年)

獄中の金子ふみ子は、皇太子暗殺をくわだてたといういつわりの罪状によって大正の末に死刑を宣告された。手ぶらで日本の政府を相手にたった時、彼女は人生についてこのように感じた。その人間としての性格が宇宙に対してこのように反応したのである。(中略)
獄内にとどめられ、素手で政府の力とむきあっている金子ふみ子が、長い手記の終わりに自分の思想を要約した仕方が、数学研究から出発して哲学にむかい80余年の生涯を生きたホワイトヘッドと似ている。このことから、ホワイトヘッドの結論が、普通人の経験の中にある直観にしっかりとたっているということをあらためて感じた。私は自分の中に、あい似た直観をもち、両者とひびきあうものを感じる。

鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち:鶴見俊輔コレクション1』黒川創編, 河出書房新社, 2012. p.451-452.

昨日の記事に続き、鶴見俊輔をとりあげる。本書『思想をつむぐ人たち:鶴見俊輔コレクション』は、雑誌「思想の科学」の編集に10代の頃から携わっていた作家の黒川創氏の編集によるアンソロジーである。1章「自分の足で立って歩く」には、先住アメリカ人ヤヒ族の最後のひとりイシの話、独学の無政府主義者で獄中死した金子ふみ子の話、徳島に没したポルトガル人の随筆家モラエスの話などが取り上げられる。鶴見のまなざしは、マージナルな人びとに常に向けられている。

1章で取り上げられた金子ふみ子の話は、本書の最後の文章「四十年たって耳に届く」のA・N・ホワイトヘッドの話で、再び取り上げられている。1941年4月に、ハーバード大学神学校で、当時18歳の鶴見は、齢80歳となる哲学者ホワイトヘッドの講演を聴いた。それは「不滅なるもの(immortality)」についての講演だった。「何度も微妙な保留をつけて、ある仕方で、不滅なるものを信じることを主張した」と、鶴見はおぼろげながらに記憶していた。約40年後に、鶴見は当時のホワイトヘッドの講演テキストを取り寄せ、読み返す。そのとき、ホワイトヘッドの言う「不滅性」で、金子ふみ子の獄中手記を思い起こすのである。

関東大震災後に「不逞鮮人」とともに多くの「主義者」(社会主義者)が逮捕勾留された。金子ふみ子もその一人であった。ふみ子の生い立ちは非常に貧しく、過酷な環境だった。父母や親族から見放されて育った無籍者(戸籍登録のない者)だったため、小学校にも通えず、社会からの「除け者」として扱われる中で、独自の思想を育てていく。後にクロポトキンの思想などからも影響を受け、社会主義ではなく無政府主義(アナーキズム)に近い考えをもつようになる。逮捕され、死刑判決を受けたふみ子であったが、その後、天皇の恩赦によって無期刑に減刑となった。しかし、ふみ子は天皇の特赦状を破り捨て、その後首をくくって自死してしまう。自らが思想的に否定した天皇からの恩赦を受け入れる訳にはいかなかったのである。その彼女が獄中手記の最後に書いた文章が「一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続する」という考えだった。正規の教育をろくに受けておらず、23歳で獄中死した彼女が、ここまで哲学的に高度な思想を育んでいたのは驚愕である。そしてそれは、最晩年のイギリスの哲学者ホワイトヘッドとあい通じるものがあると、鶴見は感じ取る。

二人の共通性は、思想の中身よりも、その思想の育み方であっただろう。鶴見は「獄内にとどめられ、素手で政府の力とむきあっている」ふみ子の思想の育み方と、哲学者ホワイトヘッドの不滅なるものに関する思想の独自の語られ方(「何度も微妙な保留をつけて」等)に、共通性を見いだしていたのだと思われる。ホワイトヘッドの思想は、「普通人の経験の中にある直観にしっかりとたっているということ」を感じられるものだった。そしてそれは、自分の生活と経験の中から、いわば「素手」で思想を形作ってきた金子ふみ子のあり方と同じである。つまり、どんなに偉大な思想であれ、哲学的な概念であれ、自分の経験の中にある直観にしっかりと立ち、その思想をつむぎ直すということが大事であると鶴見は考えていたのであろう。


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