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人間本性には他者の幸福を「眺めるだけで満足する喜び」がある——アダム・スミス『道徳感情論』を読む

いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力(プリンシプル)が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。哀れみや同情がこの種のもので、他人の苦悩を目の当たりにし、事態をくっきりと認識したときに感じる情動(エモーション)に他ならない。我々がしばしば他人の悲哀から悲しみを引き出すという事実は、例証するまでもなく明らかである。

アダム・スミス『道徳感情論』講談社学術文庫, 2013. p.30.

アダム・スミス(Adam Smith、1723 - 1790)は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者である。「経済学の父」と呼ばれる。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『道徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)などがある。『国富論』に関する過去記事も参照のこと。

スミスの『国富論』があまりに有名なために、『道徳感情論』はしばしば軽視されてきた。『道徳感情論』が「利他やキリスト教的な愛の精神」を重視したものであったのに対し、『国富論』は「自己利益」の自由な追求を基礎に据えた社会理論であったと理解して、両者の主張が矛盾していると論じた「アダム・スミス問題」が、今でも議論になるほどである。

『道徳感情論』が全体として主張したかったこと、それは、スミスがこの本の第4版以降追加した副題である「人間がまず隣人の、次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」から明らかであろう。

『国富論』は、基本的に労働、資本、土地という私有財産所有者の「自己愛」にもとづく「自己利益」の自由な追求が、結果的にあらゆる生産物をそれぞれの自然価格へ導き、生産要素がもれなく利用され、その所有者も等しく利益を享受するという理念的な世界を描き出した。だが、『道徳感情論』は、(その長い副題が示すように)人間の行為や特徴を、その原動力(プリンシプル)、つまり根源的素因にまで掘り下げて検討することを目的としており、その意味では『国富論』とその目標は共通とも言える。

しかし、隣人つまり身の回りにいる他人の行為や特徴を、次に自分自身の行為や特徴について「自然に」判断するという方法がもたらす結論は、『国富論』とは異なる。人間は他人の行為の動機や特徴を判断し、是認や否認をつうじて、ひとまず社会的な行動規範を形成し、その次に、自分自身の行為や特徴がその規範と適合しているか否かを判断して、社会の一員としての「適合性」を確認するのが自然だ、という主張だからである。スミスの考えでは、「社会が個人に先立って存在する」と捉えられているのである。

したがって、「いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力(プリンシプル)が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない」という『道徳感情論』冒頭のスミスの主張は、人間本性には、自己利益だけでなく、隣人である他者、つまり共に生きる他者の幸福を「眺めるだけで満足する喜び」も含まれている、という明確なメッセージとして受け止められなければならない。


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