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経済学批判をした経済学者マルクス——佐々木隆治『マルクス 資本論(シリーズ世界の思想)』を読む

しかし、マルクスはこのような考え方に痛烈な批判を加えました。市場というのは、けっして人間の本性に基づいたものなどではなく、ある一定の歴史的な条件のもとで成立するものであるにすぎない。したがって、市場が社会の全体を覆い尽くしている資本主義という経済システムもまた歴史的形成物にすぎない。だとすれば、いずれそれとは異なる経済システムへと移行するだろう。マルクスはこのように考えたのです。(中略)
以上のような意味で、『資本論』はたんなる経済学の書ではありません。その副題が示すように、先行する経済学の成果を摂取しつつも、それらを徹底的に批判し、資本主義的生産様式を自明視する見方を根底から覆す経済学批判なのです。『資本論』は私たちが当然だと考えている経済活動の見方を根本から変えることを読者に要求する書物だと言えるでしょう。そこに、『資本論』の最大の魅力があり、難しさがあるのです。

佐々木隆治『マルクス 資本論(シリーズ世界の思想)』KADOKAWA, 2018. p.28-29.

佐々木隆治(ささき りゅうじ, 1974 -)氏は、日本の経済学者・思想史家。立教大学経済学部准教授。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了、博士(社会学)。日本MEGA(『新マルクス・エンゲルス全集』)編集委員会編集委員。著書に『カール・マルクス―「資本主義」と闘った社会思想家』(ちくま新書)、『私たちはなぜ働くのか―マルクスと考える資本と労働の経済学』(旬報社)などがある。

本書『マルクス 資本論(シリーズ世界の思想)』は、マルクス経済学の基本を『資本論』をもとに解説する入門書であるが、500ページを超える大著となっている。

ベルリンの壁崩壊後、一時は「歴史の終焉」などが言われたものの、佐々木氏は今こそ、マルクスの哲学・経済学を自由に読めるようになったと説く。例えば、ドゥルーズやデリダといったポスト構造主義の思想家たちも「マルクスを読まないことは常に過ちとなるだろう」と言い、冷戦が終結した今だからこそ、マルクスを読むべきだと言っている。それは、彼らの慧眼が、資本主義の行き詰まりを見通していただけではなく、彼らは冷戦終結後の状況のなかに、マルクスを再生する可能性をみていたからだと佐々木氏はいう。

マルクスの経済学は、通常の近代経済学(ミクロ経済学やマクロ経済学)とはまったく異なっている。それは『資本論』の副題が「経済学批判」という言葉になっていたことからも分かる。『資本論』は一般に経済学の本だと考えられている。しかし、一般にイメージされている経済学とはかなり違うものだという。それは、単にマルクスが共産主義者だからとか、政治的に左派の立場にあるからという意味ではない。既存の経済学とは異なり、マルクスは経済学そのものの考え方を批判しているのである。

マルクスは『資本論』において、いまの経済システムやそれを構成する「商品」や「貨幣」という経済的形態を自明なものだと考えず、それらの経済的形態が、なぜ、いかにして存在しているかを根本から問い直したのである。例えば、アダム・スミスは「神の見えざる手」という考え方で、市場は人間の本性から必然的に生まれてくるものであり、それこそが本来の自然な経済システムだと考えた。
しかし、マルクスはこのような考え方に痛烈な批判を加えた。市場というのは、けっして人間の本性に基づいたものなどではなく、ある一定の歴史的な条件のもと成立するものであるにすぎない、と。

そうだとするならば、普通の経済学のように「商品」や「貨幣」を前提としたうえで経済的な因果関係を考察するのではなく、そもそも「なぜ、いかにして」それらの経済的形態が成立しているのかを考えなければならない。これを明らかにすることによって、どのような条件のもとでどのような関係によって資本主義が成立するのかが明らかになり、同時に資本主義を変革する条件も明らかにすることができる。そのようにマルクスは考えたのである。

つまり、『資本論』はたんなる経済学の書ではない。その副題が示すように、先行する経済学の成果を摂取しつつも、それらを徹底的に批判し、資本主義的生産様式を自明視する見方を根底から覆す経済学批判の書なのである、と佐々木氏はいう。


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