
現象学的世界とは存在の顕在化ではなく創設である——メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む
現象学的世界とは、先行しているはずの或る存在の顕在化ではなくて存在の創設であり、哲学とは、先行しているはずの或る真理の反映ではなくて、芸術とおなじく或る真理の実現なのだ。この実現はいかにして可能となるかとか、この実現は諸物のなかで一つの〈先在する理性〉と合一するのではないかとか——こうしたことが、あるいは問われるかもしれない。けれども、先在する唯一のロゴスとは世界そのもののことであって、また、世界を顕在的な存在へと移行せしめる哲学の方も、まずはじめには可能的な存在であった、というようなものではない。すなわち、哲学も哲学をその一部として含み込んでいる世界とおなじく、〔はじめから〕顕在的または現実的なものであり、したがってどんな説明的仮説といえども、われわれがこの未完成の世界を捉え直してこれらを全体化したり思惟したりしようと努めるその行為そのものよりも、より一そう明確であることはないのである。
モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)は、フランスの哲学者。主に現象学の発展に尽くした。メルロ=ポンティは、知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した。1945年、37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版、1959年、『見えるものと見えないもの』を刊行。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため急逝した(1961年)。
冒頭の引用は『知覚の現象学』の序文からの引用。ここでは、フッサールを引きながら「現象学とは何か」といったことが、メルロ=ポンティ流に簡潔に、しかし見事に語られている。
まず「現象学とは何か」という問いは「まだまだ解決からはほど遠い」とメルロ=ポンティは述べる。現象学とは本質(essences)の研究であるのだが、同時に現象学とは本質を存在(existence)へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその〈事実性(facticité)〉から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。現象学とは、世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも〈すでにそこに〉在るとする哲学でもあり、世界との「あの素朴な接触」をとり戻すことを目指すものである。それは一つの〈厳密学〉としての哲学たろうとする野心でもあり、また、〈生きられた〉空間や時間や世界についての一つの報告書でもある、とメルロ=ポンティは述べる。
また、現象学は「記述する(décrire)」ことが問題であって、説明したり、分析したりすることは問題ではない、とメルロ=ポンティは言う。フッサールが創成期の現象学に与えた「記述的心理学であれ」、とか「事象そのものへ帰れ」とかいうあのスローガンは、まず何よりも科学の否認だった。私は自分のことを世界の一部だとか、生物学・心理学・社会学の単なる対象だとかは考えるわけにはいかないし、自然科学の領域の内側に閉じ込めてしまうわけにもいかない。私が経験する世界は、まず私の視角から、つまり世界経験から出発して私はそれを知るのであって、この世界経験がなければ、科学の使う諸記号も意味を失ってしまう。科学の全領域は「生きられた世界」のうえに構成されているものである。
私とは一個の「生物」ではないし、生物学とか社会学、心理学とかで捉えているような存在ではない。むしろ、私とは絶対的な源泉なのであって、私の実存は私の経歴からも私の物理的・社会的環境からも由来したものではなく、逆に私の実存のほうがそうしたものの方に向かっていき、それらを支えている。科学的な見方によれば、私は世界の一契機ということになるが、こんな見方はいつも幼稚で欺瞞的である、とメルロ=ポンティは言う。
メルロ=ポンティは「知覚(perceptioin)」という言葉を特別な意味で用いる。彼が使う「知覚」とは、判断とか諸行為とか秩序に属する総合作用とは異なるものである。「知覚」は、いわば「図と地」の関係における「地」である。「知覚」は世界についての科学ではなく、それは一つの行為、一つの態度決定でさえもなくて、一切の諸行為が「図」として浮き出してくるための「地」なのであり、したがって一切の諸行為によってあらかじめ前提とされているものである。
メルロ=ポンティは「知覚」という言葉であらわそうとするものを、フッサールの「現象学的還元(形相的還元)」と関連づける。「形相的還元」とは、世界というものを、それが我々自身への一切の環帰に先立ってある、その通りの姿で出現させようとする決意である。私は世界を指向し、それを知覚する。つまり、メルロ=ポンティのいう「知覚」とは、フッサールの現象学的還元の行為と同じく、世界をそのままの姿に現象させ、それを捉えようとする運動である。そのとき、世界を「ゲシュタルト」として知覚することが目指されている。このことをメルロ=ポンティは「我々は本当に世界を知覚しているかどうかは問題にすべきことではなくて、むしろ逆に、世界とは我々の知覚している当のものである」と述べている。
その上でメルロ=ポンティは、「現象学的世界とは、先行しているはずのある存在の顕在化ではなくて存在の創設」であるという。すでに実在している世界をどう捉えるのか、知覚するのか、というのは科学がやってきたことである。そうではなくて、現象学はすでに実在しているはずの世界を、そのたびごとに立ち現れさせるような営みである。私の意識が世界を構成し、存在させるということではない。すでに実在の世界は存在しており、現象学はその実在を疑わない。なぜなら、私たちが知覚し経験している「それ」そのものこそが世界だからである。この知覚の経験が、私を結節点(あるいは場)として世界として立ち現れる。その現象そのものを記述することが現象学である。