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言語ゲームを異にする他者との対話(あるいはポリフォニー)——柄谷行人『探究Ⅰ』を読む

《他者》とは、いわば、言語ゲーム(規則)を異にする者のことである。彼らは、何かをしゃべればそれが他者に或る意味(規則)で理解(誤解)されてしまうということを惧れている。だが、彼ら自身のなかに、明示しうるような規則(意味)もないのである。ドストエフスキーの人物たちを緊張させているのは、「教える」ことに存するパラドックスなのだ。
ドストエフスキーの小説が対話的なのは、人物たちが対立しあい多様な意見を「語る」からではなく、そんな意味ではもはや「語り」えないからである。われわれは、言語ゲームを共有するかぎりで語り合うことができ、対立することさえできるだろう。が、もしそうでないとしたら、「他者に語る」ことは戦慄すべき事柄である。ドストエフスキーの人物たちは誰もが相互にこのような《他者》に直面しあっている。ここでは、客観的な言明も、私的な内面もありえない。むろん、そこから生じる涯しない饒舌の対極に、沈黙(ソーニャ、ムイシキン、ゾシマ長老)がある。だが、この沈黙も、饒舌と同様に、"他者"とのあいだにひらかれた「深淵」(キルケゴール)を飛びこえようとする言語行為なのである。
「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしていうが、異った言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。

柄谷行人『探求Ⅰ』講談社, 1992. p.204-205.

柄谷行人は、1969年、夏目漱石を主題とした漱石論で文学賞を受賞したところから文芸批評家としてのキャリアをスタートさせ、1970年代には価値形態論を中心としたマルクス『資本論』の読み直し・再解釈をおこなっていく。それはマルクス・レーニン主義の視点からでないマルクスの再発見であり、新たな連帯・コミュニケーションの形を見つけ出すという目論見に基づくものであった。1980年代に入り、「構造主義」「ポスト構造主義」の理論的再吟味とマルクス『資本論』の価値形態論の再吟味を同時に行う仕事をする

それらの仕事の中で80年代に発表されたのが『探究Ⅰ』と『探究Ⅱ』である。本書の題名はウィトゲンシュタインの『哲学探究』からとられており、柄谷は当初の意識は「とりあえずウィトゲンシュタインについて書いてみようという程度であった」と述べている。本書のテーマは一言でいえば「《他者》あるいは《外部》に関する探究である」と柄谷はいう。彼にとってそれらの語は、自身をふくむそれまでの思考に対する「態度の変更」を意味していた。本書を書いているうちに柄谷は、この変更がたんに理論的なものではなく、もっと根本的なものであることに気づく。そして柄谷はこの問題と無期限に対峙していくだろうという予感を書きながら覚えている。

本書の中核にあるのはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、バフチンのポリフォニー論である。そして「《他者》とはいかなるものか」が探究される。柄谷は、他者をたんなる聞き手としてみるなら、実際に対話的であってもそれはモノローグ(独我論)的であるという。すなわちそこには《他者》は存在しない。ここでいう《他者》とは、異なる言語ゲームを遊んでいるような他者のことを指している。これはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論である。

ウィトゲンシュタインが言った「言語ゲーム」とは、人は他者と対話するときに異なるルールの言語ゲームをしているようなものだから、そのルール(規則)を確認して、コミュニケーションを成立させようという単純なものではない。むしろそれは誤解である。柄谷は「言語を他者とのコミュニケーションにおいてみるとき、「同一的な意味」を想定することはできない。また、一定の規則を前提にすることもできない」(上掲書, p.43)とウィトゲンシュタインを解釈する。ウィトゲンシュタインは、そもそも言語という行為において同一の規則など存在しないということを言うために「言語ゲーム」の概念を持ち出した、と柄谷は言う。ウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」の概念によって、われわれのコミュニケーションが何らかの規則(コード)によっていることをいいたいのではなく、その逆に、そのような規則とは、われわれが理解したとたんに見出される「結果」でしかないと言いたいのである。そのような規則は、ある記号で何かを「意味している」ことが成立するそのかぎりで、たちまち「でっち上げられる」のである。

これは、バフチンのポリフォニー論(あるいは、対話(ダイアローグ)論)とも通じるものである。バフチンはドストエフスキーの小説に「ポリフォニー」という特徴を見出した。ポリフォニーとは、複数の意識(声)が融合しないままに応答しあい、共存しあう状態を指す。ポリフォニーは「多声性」と訳されることもあるが、これは誤解を生みやすい訳語である。単に複数の声が集まっている状態がポリフォニーではない。例えばバフチンは、ドストエフスキーの小説はポリフォニー的だが、プラトンの対話篇やシェークスピアの劇もポリフォニー的ではない、つまりモノローグ的であるという。プラトンの対話篇では結局、プラトンという一人の人間が語っているだけだというのである。ドストエフスキーの小説に出てくる人物たちは、何かを言ったあと、相手が言いかえす前に、それを先取りして、さらにそれを否定してしゃべり続ける。彼らの言葉は、何かを「意味する」ということを拒否する。あるいは自分の言葉の意味が、他者の規則に依存してしまうということを拒否しているその意味で、彼らの発語は《他者》に向けられているのである。

柄谷は、《他者》とは言語ゲームを異にする者のことであるという。ドストエフスキーの人物たちは、何かを話せばそれが他者にある意味(規則)で理解(誤解)されてしまうことをおそれているという。しかし、彼ら自身のなかにも、明示しうるような規則(意味)もないのである。それは言語ゲームというそもそも規則のないゲームを遊びながら、構築されていく(でっち上げられていく)ものである。つまり、同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があっても、それはモノローグ(独我論)となる。しかし、ダイアローグ(対話)とは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいかなる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じる、と柄谷はいう。それはつねに、《他者》とのあいだに開かれた「深淵」(キルケゴール)を飛び越えようとする言語行為なのだ。



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