
パール判決書は日本無罪論ではない——中島岳志・西部邁『パール判決を問い直す』を読む
中島 おっしゃるとおり、『パール判決書』を「日本無罪論」とするのは不正確であり、ミスリーディングだと言わざるを得ません。パールはあくまでもA級戦犯は法的に無罪と結論づけただけで、日本に戦争責任はないと主張したわけではありません。また、西部先生がおっしゃるとおり、「大東亜戦争」の政治・道義的肯定論を展開したわけでもありません。彼は日本が西洋の帝国主義を模倣したプロセスに対して批判的な見地を繰り返し述べていますし、日本が戦争という暴力に訴えたことについて、のちにきわめて厳しい見方を提示しています。
パール判決論争とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事であったラダ・ビノード・パールの判決書(反対意見書)、およびパール判事の思想や経歴に関する論争である。
パール判決書では、東京裁判憲章の極東国際軍事裁判では、①平和に対する罪、②(通例の)戦争犯罪、③人道に対する罪の3つの罪のうち、平和に対する罪と人道に対する罪は事後法で、罪刑法定主義に反するとして、平和に対する罪で訴追されたA級戦犯の全被告人は無罪とした。
1953年にパールの日本演説を編集した田中正明は1963年に『パール判事の日本無罪論』(慧文社)を出版し、パール判決での日本無罪について論じた。これに対して2007年中島岳志は「パール判決書は日本無罪論ではない」と批判。本書『パール判決を問い直す:「日本無罪論」の真相』はその翌年2008年に、保守派論客の西部邁氏と政治学者・中島岳志氏の対談を新書として刊行したものである。
自称保守派が都合よく引用するような「パール判決書は日本無罪論である」というのは正しくない、ということで中島氏と西部氏は一致する。
まず、パールが問題にしたのは東京裁判の構造的問題である。彼は一貫して、東京裁判は侵略戦争の防止につながらないと主張した。東京裁判は、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判を下敷きにしたものだった。しかしパールは、東京裁判が同時代に与えるメッセージは、戦争に勝ちさえすれば自分たちの都合のいいように敗戦国を裁くことができるというものでしかないと主張した。
そしてパールが最も問題にしたのは「平和に対する罪」である。東京裁判では「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」という三本柱によって裁判が進行したのだが、パールは「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は当時の国際法では成立していないと見なした。つまり事後法だというわけである。
特に連合国側は、日本の指導者たちが侵略についての一貫した「共同謀議」を行い、「平和に対する罪」を犯し続けたと主張したわけだが、パールはそもそも「平和に対する罪」は事後法であるし、日本の指導者たちが「全面的共同謀議」を行っていたというのは、相互に孤立した事象を連合国側が設定した全体のストーリーに無理やり組み込む作為的な主張であるとして、これを批判した。
しかしながら、パールの法理論や政治道徳論は、日本無罪論でも大東亜戦争肯定論でもない。したがって、パール判決のA級戦犯無罪の部分だけを切り取って、日本無罪論あるいは大東亜戦争肯定論につなげることは避けなけれればならない。
パールはあくまでA級戦犯は法的に無罪と結論づけただけで、日本に戦争責任はないと主張したわけではない。また、「大東亜戦争」の政治・道義的肯定論を展開したわけでもない。パールは日本が西洋の帝国主義を模倣したプロセスに批判的な見地をとっており、日本が戦争という暴力を訴えたことについて、厳しい見方を提示している。
パールが提示した「平和に対する罪」が事後法であるというポイントは、被告の弁護人を務めた清瀬一郎が、東京裁判の冒頭において動議を提出し、指摘していたことでもあった(ちなみにこの時点でパール判事はまだ日本に到着していなかった)。つまり、パールに依拠せずとも、清瀬一郎がすでに東京裁判の重大な構造的問題を正面から論じていたのである。清瀬が指摘したことは、東京裁判が一つに事後法にもとづく不法行為であり、二つに戦勝国による政治的復讐劇である、ということであった。