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はじめにことばありき—エーコの『薔薇の名前』を読む

初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。これは初めから神とともにあった。そして敬虔な修道僧の務めとは異論のない真理と断言しうる修正不可能な唯一の事件を慎ましやかな頌読によって日々に反復することであろう。それなのに〈私タチハイマハ鏡ニオボロニ映ッタモノヲ見テイル〉。そして真理は、面と向かって現れてくるまえに、切れぎれに(ああ、なんと判読しがたいことか)この世の過誤のうちに現れてきてしまう。それゆえ私たちは片々たる忠実な表象を、たとえそれらが胡散臭い外見を取ってひたすら悪をめざす意志にまみれているように見えても、丹念に読み抜かねばならい。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上巻, 東京創元社, 1990, p.22

小説『薔薇の名前』の、冒頭の文章である。

『薔薇の名前』(イタリア語原題:Il Nome della Rosa イル・ノーメ・デッラ・ローザ)は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。全世界で5500万部を超える世界的なベストセラーとなり、1986年には映画化(西独、伊、仏)された。

物語自体は殺人事件の真相を解明するというシンプルなものだが、その背景に、喜劇について論じた詩論とされるが伝来しておらず、本当に存在したのか論争があるアリストテレスの『詩学』の第二部や、当時の神学論争(普遍論争など)や、フランシスコ会における清貧論争とそこから発生した異端論議、神聖ローマ皇帝とアヴィニョンに移った教皇の争い、当時のヨーロッパを覆っていた終末意識などが複雑にからみあっている。聖書やキリスト教神学からのさまざまな形での引用が多いことも本書の理解を難しくしているが、逆に言えばそれらについての知識が増えれば増えるほどさらに面白く読むことができる。(Wikipediaより)

引用した文章、本小説の最初の一文が「初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」は、新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章の「はじめに言葉(ロゴス)ありき」から取られている。

ヨハネ福音書から引用してみる。

はじめにことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった。彼ははじめに神のところにあった。すべては彼によって成った。成ったもので彼によらずに成ったものは一つもない。彼に命があり、命は人々の光であった。光は闇に輝くが、闇はそれを受けなかった。神からつかわされて現れた人がある。名はヨハネという。彼は証のために来た。光について証し、すべての人が彼によって信ずるためであった。彼は光ではなかった。光について証するための人であった。

『新約聖書』ヨハネ福音書第1章(世界の名著 12巻, 中央公論社, p.465)

ことば=ロゴスとは、新約聖書においては、ナザレのイエスを指している。古代世界、特にギリシャでは、ことば(ロゴス)がしばしば神格化されたのに対して、このヨハネ福音書での意味は、イエスこそが神からつかわされた真のことば(ロゴス)であるという意味だそうだ。ここでいう「ことば(ロゴス)」とは、愛の十字架によって神と人とを、また人と人とを対話させて結ぶものという意味である。

ことばやテキストが溢れるように飛び交っている現代では、「ことば」とは情報の一つと捉えている人が多いかもしれない。しかしながら、ことばとはロゴスであり、つまりは真理そのもの、あるいは、真理が隠された表象・記号であると捉えることもできる。私たちは、ことばの中から「片々たる忠実な表象」を注意深く読み抜くことができれば、「真理」に近づけるのかもしれない。はたして「真理」なるものがあるとすればの話だが。


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