スタヴローギンが感じた存在論的な恐怖——亀山郁夫氏『『悪霊』神になりたかった男』より
ドストエフスキーの全作品でもっとも危険とされる「スタヴローギンの告白」(小説『悪霊』より)。作家の全人格が凝縮されているこのテクストには、人間の〈堕落〉をめぐる根源的ともいえるイメージが息づいている。文学のリアリティとは何か。人間にはどのような可能性が秘められているのか。ロシア文学研究者の亀山郁夫氏が小説『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」について徹底的に解明しているのが本書『理想の教室 『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房)である。小説『悪霊』については過去記事も参照のこと。
亀山氏は大学3年生のときに『悪霊』を読んで衝撃を受ける。彼がこの小説を通して学んだのは、人間の魂のもつ果てしない振幅であり、同じ魂の深み、同じ次元のなかで対立し、せめぎあう地獄と天国だった。並みの人間のはるか上にその神々しい身を置き、並みの人間のはるか下で浅ましくおぞましい内面をさらけ出すスタヴローギン。このスタヴローギンが、亀山氏の心のなかにかすかならがも息づいている得体のしれない生きもののように思えたのだという。
翻訳やロシア語をとおして何度も「スタヴローギンの告白」を読み直してきた亀山氏が、もっとも重大と考えているモチーフは「恐怖」であるという。スタヴローギンはマトリョーシャという少女を凌辱した後、彼女が納屋で首を吊っているのを密かに見届ける。その後、その少女の死の真相は誰にも知られないのであるが、スタヴローギンはある恐怖と憎悪にとらわれるようになる。この恐怖と憎悪の正体は何か。恐怖とは人間のもっとも原始的な感情である。この恐怖を乗りこえてしまったとき、人間は人間として終わってしまう。恐怖は社会的であるのに対し、憎悪は存在論的である。恐怖は社会の目を意識したときに起きる。それに対し、憎悪は自分の存在理由を脅かすものに対する自己防衛的な力である。しかしスタヴローギンの恐怖は、社会的な露見の恐怖から、存在論的ともいえる恐怖へと変化していく。その恐怖は、根本において性にまつわる、性に根ざした恐怖である。なぜなら、性において、人間はどこかの部分で裸にならざるをえず、性の場面において人はすべての弱さと強さが露見するからである。いわば「神」をも超越しようとしていたスタヴローギンは、この存在論的な恐怖を前にして、ひとりの生身の人間として「裸」にならざるを得ない。彼が感じていたのはそのような「もっとも人間的な」恐怖であった。
また、この「告白」文体の小説というところにも大きな特徴がある。世界の文学には、さまざまな告白文学がある。ドストエフスキーが読んでいたと思われるものだけでも、ジャン=ジャック・ルソー『告白』(1782-89年)、ジョルジュ・サンド『少女の告白』(1836年)、フレデリック・スーリエ『全体的告白』(1839年)、ピエール・プルードン『革命家の告白』(1849年)などがある。とりわけルソーは重要であり、ドストエフスキー自身、この「スタヴローギンの告白」の中で、ルソーの名前に言及している。告白文学には、犯した罪と苦しい内的経験、さらには精神的再生の道、ないし苦悩による浄化などのテーマが含まれる。そもそも、何かを「告白」するという行為そのものうちに、人間としての再生のきざしが胚胎している。「告白」がすぐれて人間的な行いとされるのは、人間の内部に堰き止められなくなった力を外に流出させること、端的に言うと、「裸になること」を意味するからである。
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