見出し画像

「恥の文化」としての日本文化論——ルース・ベネディクト『菊と刀』を読む

日本人は恥辱感を原動力にしている。明らかに定められた善行の道標に従いえないこと、いろいろの義務の間の均衡をたもち、または起こりうべき偶然を予見することができないこと、それが恥辱("ハジ")である。恥は徳の根本である、彼らは言う。恥を感じやすい人こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。「恥を知る人」という言葉は、ある時は 'virtuous man'〔有徳の人〕、ある時は 'man of honor'〔名誉を重んずる人〕と訳される。恥は日本の倫理において、「良心の潔白」、「神に義とせられること」、罪を避けることが、西欧の倫理において占めているのと同じ権威ある地位を占めている。したがってその当然の論理的帰結として、人は死後の生活において罰せられるなどということはない。日本人は——インドの経典の知識をもっている僧侶たちを除けば——この世で積んだ功罪に応じて異なった状態に生まれ変わるという思想を全く知らない。また彼らは——十分教義を理解したうえでキリスト教に帰依した人びとを除いては——死後の賞罰、ないしは天国と地獄というようなことを認めない。

ルース・ベネディクト『菊と刀:日本文化の型』長谷川松治訳, 講談社, 2005. p.274

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887 - 1948)は、アメリカ合衆国の文化人類学者。ニューヨーク生まれ。「レイシズム」の語を世に広めたことや、アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論である『菊と刀』を著したことによって知られる。

『菊と刀:日本文化の型』(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、「恩」や「義理」などといった日本文化『固有』の規範を分析した。本書は戦争情報局の日本班チーフだったベネディクトがまとめた5章から成る報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」を基に執筆された。ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。

『菊と刀』は日本文化の行動規範の独自性を強調する。しかし、懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を他者との相対的な空気を意識する「恥の文化」と指摘し、欧米の文化を自律的な良心を意識する「罪の文化」と定義する。

ちなみに原題の『菊と刀』は何を意味するのかというと、日本人が持つ相反する特質を象徴的に表現したものである。日本人は類例のないくらい礼儀正しい一方、不遜で尊大であるとも言える。彼らは固陋であると同時に、どんな新奇なことにも容易に順応する。彼らは真に勇敢であると同時に、臆病さも持っている。ベネディクトは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた」と書いている。また、「これらすべての矛盾が、日本に関する書物の縦糸と横糸になるのである。それらはいずれも真実である。刀も菊もともに一つの絵の部分である」と述べている。

ベネディクトは文化人類学の知見に基づき、さまざまな文化は、「恥」を基調とする文化と、「罪」を基調とする文化に分かれるという。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会は「罪の文化(guilt culture)」と定義される。西欧のキリスト教文化圏は基本的に「罪の文化」である。罪の文化においては、懺悔や贖罪によってその罪の意識を軽減することができる。罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。一方、「恥の文化」においては、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。そして、日本は典型的な「恥の文化」であると指摘する。

「罪の文化」が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行なうのに対して、「恥の文化(shame culture)」は外面的強制力にもとづいて善行を行なう。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思い込むことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。そして、日本においては「恥(ハジ)」は、徳の根本ともなっている、とベネディクトは述べる。恥を感じやすい人こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。「恥を知る人」という言葉は、ある時は「有徳の人」や「名誉を重んずる人」という意味で使われる。

日本人においては「恥」が徳の最高の地位を占めている、とベネディクトは指摘する。恥の文化においては、各人は自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。したがって、日本人は皆が同じ判断基準に従って行動することを好む。その同じ規範の中で行動する限りにおいては、恥を感じることがない。しかし、一旦この規範から外れてしまうとき「恥」を強烈に感じるのである。このとき感じている負の意識は、内面的な規範からくる「罪」の意識とは異なっている。それは、世評や世間から嘲笑されるという外面的な意識である。したがって、「恥」を感じたときには「恥をすすぐ」必要が出てくる。その最も極端な形が「切腹」に象徴される

最近、ある地方自治体首長の「恥を知れ、恥を!」という発言が大きな話題になった。「恥」は日本人の心の琴線に触れる言葉であることは間違いない。「恥を知れ」という言葉が最大的な侮辱の言葉になりえるということは、日本人の倫理観の中で「恥」がいまだに大きな位置を占めるということだろう。戦後約80年が経とうとしているが、日本を訪れたことがなかったアメリカの文化人類学者が80年前に喝破した日本人の「恥」の倫理感とそれに基づく行動原理は、いまもって大きく変わらないと感じるのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?