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無意味性を徹底するところから生が始まる——三島由紀夫『命売ります』を読む

つまり、羽仁男の考えは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に生きるという考えだった。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかった。まず意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面するという人間は、ただのセンチメンタリストだった。命の惜しい奴らだった。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆(うずたか)い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座していることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探求したり、無意味を生活したりする必要があるだろう。

三島由紀夫『命売ります』筑摩書房, 1998. p.187.

三島由紀夫(みしま ゆきお, 1925 - 1970)は日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)。東京四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。以後、『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』『豊饒の海』など、次々話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。

本書『命売ります』は1968年(昭和43年)、雑誌「週刊プレイボーイ」に連載された長編小説。物語は自殺に失敗した男が「命売ります」と新聞広告を出すところから始まり、それを利用しようとする人間が次々に現れては騒動を起こしていく。従来の三島作品のイメージを覆すような軽いタッチとスリリングな展開に引き込まれ一気読みしてしまう、極上のエンタメ小説となっている。

この小説のテーマは「ニヒリズム」と「命の価値」である
作品内では、従来の道徳や美意識が失われ、現代社会がもはや絶対的な価値を持たなくなったという感覚が色濃く反映されている。主人公の羽仁男は、伝統的な生き方や精神性の喪失に直面し、何事にも本質的な意味を見いだせず、虚無に陥る様相が描かれている。

ニヒリズムは、自己の存在や行為が無意味であるとの認識をもたらし、時に自己破壊的な行動や、自己を客体化するかのような態度に結実する。『命売ります』では、命そのものを「商品」として扱うかのような発想が、社会の中で生きる個人の孤独と絶望を象徴していると言えるだろう。

しかし三島の作品はそう単純なところでは終わらない。
三島はこの作品を通じて、〈無意味〉を徹底するところから、むしろ人生の意味や価値が生まれるのではないか。そう問いかけているようにも思える。

命が「売られる」というイメージは、現代社会において人間の存在があたかも取引対象となっているかのような状況を暗示している。これにより、命の持つ本来的な価値が表面的な経済的価値に還元され、存在そのものの神聖さが疑問視される状況が浮き彫りになる。
しかし同時に、三島はこうした表層的な価値観への批判を通して、命が持つ内面的な美しさや、自己を超越する力——たとえば美意識や精神的な覚醒——に光を当てているのではないだろうか。

すべてを死の側から見ること、死んでいった者の側から見ることを三島はしていたのかもしれない。途中「吸血鬼」と呼ばれる女性が登場する。その助成は、主人公の羽仁男から血を吸い、みるみる健康的になっていく。それと逆相関するように、羽仁男には生気がなくなっていき、死に近づいていく。彼女はあたかも、戦前の日本の死者たちを無意味化することで経済的繁栄を享受している日本そのものであるようにも見える

それまで羽仁男とは何の関係もなかった女。しかし自分の生き血を吸って、美しく健康的になった女を見て、羽仁男は満足気である。それは自分の死に〈意味〉が発生したからということではない。徹底的に〈無意味〉な世界の中で、自分の死の反転として生が発生したということ、その無意味性の徹底からくる生へのまなざし、そういったものが主人公の心には芽生えているような気がするのである。


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