傷に名をつけ、そっと包帯で包むこと——宮地尚子氏『傷を愛せるか』を読む
宮地尚子(みやじ なおこ、1961年 - )氏は、日本の精神科医、人類学者、社会学者。専門は文化精神医学、医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究を続けている。一橋大学大学院社会学研究科教授。日本医療情報センター懸賞論文最優秀賞、日本青年会議所TOYP大賞受賞。著書に『異文化を生きる』『トラウマの医療人類学』『環状島=トラウマの地政学』『傷を愛せるか』『震災トラウマと復興ストレス』『ははがうまれる』など多数。
本書『傷を愛せるか』はトラウマ研究の第一人者の宮地氏による傷=トラウマをめぐるエッセイ集である。「傷を愛せるか」と題されたエッセイは、ベトナム戦没者記念碑の描写からはじまる。1982年にワシントンD.C.に建造されたベトナム戦没者記念碑は、デザインや設計者をめぐって激しい論争が起こったことで有名である。記念碑のデザインは、黒い御影石で造られた二つの壁が125度の角度で接合しV字型を形成しており、そこに戦没者の名前が刻まれている。リンカーン記念堂やワシントン記念塔など、周りの建造物がほとんどすべて白い石材で造らているのと対照的である。また傾斜面の地表より低いところに、土にめり込むように造られている。
そこを初めて訪れた宮地氏は、想像していたほどの感動や感傷を感じない自分に気づき、驚く。むしろ、実際に感じたのは「しみじみとしたみじめさ」だったという。つまりベトナム戦没者記念碑はアメリカにとって「傷」なのである。隠したい傷。「恥や悲しみや堕落、無力さを想起させる」もの。まるで誰にも見られたくない傷を隠すように、黒い御影石のV字型の記念碑は、地表の下に、地下にのめり込むように造られている。宮地氏を最初におそった感覚はこの「低さ」であった。「下っていくこと、地平線より自分が下にいることに、自分の身体がこれほど反応するとは思っていなかった」と宮地氏は綴る。攻撃されやすい感じ。包囲されている感じ。上から踏みつけにされても逃げようがない感じ。視野が狭まる感じ。それはまるで「トラウマ」を抱えた当事者が感じる身体感覚そのものである。
「美しい傷など、実際にはまずありえない」と宮地氏は語る。傷は痛い。傷はうずく。血が流れ、膿が出て、熱をもち、ウジがたかり、悪臭を放つことすらある。傷はみじめで、醜い。見にくくもある。だから見たくない。自分の傷をもてあまし、目を背ける。しかし、こんなにみじめな「傷跡」としてのベトナム戦没者記念碑が、議論を巻き起こしながらも完成にこぎ着け、今も破壊されずにあること自体を、宮地氏は一つの奇跡のように感じる。
傷に対して私たちは何ができるのだろうか。ましてや宮地氏はトラウマ研究の専門家でもあり精神科医でもある。それでも、宮地氏はトラウマに対して私たちができることはとても限られていると感じている。いろんな傷がある。傷つけられた傷だけでなく、傷つけてしまった傷、友人が傷ついているのに気づかず追いつめてしまった傷、傍観者として何もできずに見ているしかなかった傷……。宮地氏はそうしたさまざまな傷が描かれれる『包帯クラブ』(天童荒太作)という物語から引用して、傷への一つのアプローチを示す。深い傷に対してできることはほとんどないかもしれない。だが、〈傷〉と名をつけ、「痛いでしょ」といたわりを伝えること、〈傷〉に包帯を巻くことはできるのだと。
傷として名づけること。手当てされた風景を残すこと。それでも「何にもならないこと」もあるという事実を認め、その「証」を残すこと。専門家である宮地氏は、『包帯クラブ』の非専門家のトラウマへの対処の迷いや悩みに深く共感する。傷の深さや、真実のありか、倫理的判断のむずかしさ、治療者側が感じる無力感や罪悪感。包帯クラブのメンバーに出せなかった答えは、トラウマ治療の専門家にも出せないのではないか。専門家だからこそ、無理やり線を引き、答えを出そうとして、余計に相手の傷を深めてしまったり、無視してしまったりしていないだろうか、と自問自答するのである。
傷を愛することはむずかしい。傷は誰でも隠したい。見えないふりをしてもいい。しかし、傷をなかったことには、しないでいたい、と宮地氏は語る。傷を負った自分、傷を負わせた自分からは、逃げることができないからだ。私たちにできることは、傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。それに〈傷〉という名をつけ、「痛いでしょ」といたわりを伝えること、そっと傷に包帯を巻くことなのではないか、と。