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「物語の力」の欠落と〈顔〉の不在——鈴木智之氏の『顔の剥奪』を読む

「僕」には、自分の体も周囲の風景も、ヴァーチャルに構成された仮想的現実であるようにしか感じられない。すなわち、生の偶発性が、それを自己の現実として受け止め直す力を上回ってしまうほどの高まっているのである。そして、おそらくここには、「物語の力」の欠落、あるいはその決定的な不足を見なければならない。
物語(ナラティヴ)とは、出来事の推移を時系列的な秩序のなかに配置することを通じて、そのなかに「必然的なつながり」の感覚を生み出していく認知的手続きである。人は物語ることによって、偶然の累積のなかにも因果的な連鎖を発見し、これを一続きのストーリーとしてとらえ返すことができる。それは、常に別様の可能性へと開かれている生が、そのつどほかの道筋を消して一つの現実へと縮減されていく過程を、事後的にたどり直し、一筋の軌道として描き直す営みである。そして、この物語化の作業を通じて、人は、偶然によって規定されてきた行程を、自分自身の人生として受け取り直すのである。

鈴木智之『顔の剥奪:文学から〈他者のあやうさ〉を読む』青弓社, 2016. p.92.

鈴木智之氏(1962 -)は、法政大学社会学部教授。専攻は理論社会学、文化社会学。著書に『村上春樹と物語の条件』(晶文社)、共編著に『失われざる十年の記憶』(青弓社)、訳書に『傷ついた物語の語り手』(ゆみる出版)などがある。

本書『顔の剥奪:文学から〈他者のあやうさ〉を読む』は、哲学者エマニュエル・レヴィナスが語る〈顔〉の概念を軸に、人と人がともにあるということが基礎づけられる〈顔〉の現れ、「共在の器官」としての〈顔〉が不在になるとき、剥奪されるときの諸相を、さまざまな文学作品を例に描き出している。文学・小説が語る「顔の不在」の表象と、それを読んだときに感じる私たちの不安の源泉を丁寧にすくい取り、他者との共在の困難と他者と出会い直すことの可能性を描き出す文学批評となっている。

「〈他者〉はその顔において公現し、この顔は私に訴えかける」というエマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』の引用から始まるこの本は、〈顔〉が、人々が相互作用に加わり、その場面にふさわしい秩序を実現していくためのきっかけとなる場であることを描く。〈顔〉は、適切な行為を選択するための手がかりであり、その行為の最初の一歩(としての表情)が現れる場所でもある。〈顔〉とともに、「私」と「あなた」はそれぞれ何者かとなり、特定の社会的場面を構成する主体となる。その意味で、人と人がともにあるということが、〈顔〉の現れに基礎づけられており、顔は「共在の器官」となるのである。

したがって「顔の不在」は深刻な状況を生み出す。「顔の不在」に対して人が感じる「不気味さ」は、単にその人についての情報の乏しさだけに由来するものではない。情動的な表出を含めたやりとりを通じて、相手が自分とのあいだに相互的な了解の場を作り出そうとする気配が絶たれることをも意味する。文学作品などで描かれる「顔のない人間」は、人々が織り成している社会的な意味の世界の破綻をしるしづけ、物語の危機の所在を告げている、と鈴木氏はいう。「顔を失った人間」が表すものとは、「他者の現れ」の困難、したがってまた「共在」の困難がそこには露見しているという。

村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』には、「顔がない女」が登場する。主人公の「僕」と20年ぶりに再会したイズミという女性には、顔がない。久しぶりの再会だったにもかかわらず、「僕」はそれがイズミであることを一瞬のうちに確信する。ただしそこには、「自然に人の心を引きつけるような素直な温かさ」をもっていた少女の面影はなかった。そこにあったのは、「表情」という言葉で呼びうるものがすべて剥がれ落ちたような空虚な「顔」であった。この、作品の最後に突然浮上する「イズミの顔」は何を意味するのだろうか。

この作品の主題となっているのは「生の偶発性」と「物語の力」の欠如であると鈴木氏はいう。主人公の「僕」の人生をすっぽりと呑み込んでいるのは巨大なシステムのイメージであり、それは「より高度な資本主義の論理によって成立している世界」である。そして、その世界は個としての意志の力を超えて、偶然に、ある者を繁栄に、ある者を死滅に導き、しかし結局はすべてが消えうせ、何もかもが損なわれてしまう「砂漠」の生である。この「砂漠」的世界に投げ込まれた人々の生を、個人の生活史の次元でとらえ返してみたとき、そこに浮かび上がってくるのは「生の偶発性」である、鈴木氏はいう。この小説において、「僕」は、偶然の積み重ねのなかで形作られてきた現実を自分自身のものとして確かに感じとることができなくなってしまっている。ここには「物語の力」の欠落、あるいはその決定的な不足を見ることができる。

物語(ナラティヴ)とは、出来事の推移を時系列的な秩序のなかに配置することを通じて、そのなかに「必然的なつながり」の感覚を生み出していく認知的手続きである。人は物語ることによって、偶然の出来事のなかに因果的な連鎖を見出し、自分の人生を事後的にたどり直すことで、偶然によって規定されてきた行程を、自分自身の人生として受け取り直す。「僕」にとっての問題は、人生の現実が偶然に左右されていることそれ自体にではなく、その成り行きを「自己の物語」としてまとめ直す力の欠落にある。自分自身が経験してきた出来事の推移を、私自身の生の軌道として統合形象化し、自分が自分の「物語的時間」を生きているという感覚を確かなものとしていく力の脆弱さ。

そして、そうした全体的な状況を表象するのが「イズミの顔」である。それは、自分がこの世界に確かにつながっているという感覚が失われたときに突如として現れる。イズミの無表情な顔、あるいは「顔の喪失」は、ユートピアの幻想が剥がれ落ちたあとに露呈する世界のありようを示している。この偶発性が支配する世界で「確かなもの」を求めているがために、「僕」は、必然的に破綻へと導かれてしまう。この状況を「イズミの顔」が体現していると鈴木氏はいうのである。小説『国境の南、太陽の西』は、そのような世界で語られている。そこでは、呼びかければ応えてくれるであろう「他者」の存在が見えない。人は「イズミの顔」を、レヴィナスが言う意味での「宛て先」として「語りかける」ことができない。そこに生きている何者かは、人と人のあいだに生起する世界からすでに脱落してしまっている「表情と呼べるもの」のすべてが剥がれ落ちてしまった「顔」が、そのことを表しているのである。



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