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教養(アート)とは人間を人間らしくする知恵である——白川昌生氏『西洋美術史を解体する』を読む

教養は学習されるべき知識ではあるが、やがてそれは身体化され知恵として血肉化されることが目標とされてきた。人間が人間らしくなるための知恵が教養なのであり、それを血肉化する技術がまさに芸術(アート)だと考えられてきたのである。
アートを身につけるということは、単に技能的な喜びのため、実用のためだけではなく、その根本において、他者、自然と共鳴できる、広くて深い人としての思考、共感を育成することに他ならないと思われる。表現する喜びは、それを享受、鑑賞する喜びを引き起こし、相互の存在承認を感性の深い領域で再構築するように促すのだといえる。

白川昌生『西洋美術史を解体する』水声社, 2011. p.17-18.

白川昌生(しらかわ よしお、1948 - )氏は、美術家、美術評論家。本名、白川芳夫。群馬県立女子大学、前橋工科大学講師。
本書『西洋美術史を解体する』は、美術評論家の白川氏の目線で、"西洋”そして“美術”という伝統的な閉じられた枠組を解体し、相対化し、もうひとつの別の美術史を構想する一冊である。

「何がアートなのか」という問いは実はなかなか答えが難しいものである、と冒頭の章「〈アート〉の起源」において白川氏は述べる。しかし、難しく考えるよりも、もっと身近なかたちで考えるとよい。「アートとは何か」という定義にこだわることなく、「アートする」という実践や体験に重点をおいて考えれば、おそらくは人間の行動のすべてがアートである、という広い展望が開けてくる、という。

日本で「美術」という言葉が誕生したのは、1873年(明治6年)の、日本政府が参加したウィーン万国博覧会のカタログ作成のときだという。それまでの日本語にあった言葉は「芸術」、「絵」であった。「芸術」という言葉は、すでに中国から輸入されていた言葉であったが、その意味するところは現在の芸術という言葉とは大きく異なっていた。武芸、馬術、華道、茶道、話術、料理、天文学、占い、性愛術などを含む広大な領域を指していた。

西洋においては、古代ギリシアに端を発し、中世をへて、ルネサンス文化の中で「自由学芸(リベラルアーツ)」と呼ばれていた領域に近い。過去においては、こうした「リベラルアーツ」の素養、すなわち教養の欠落した人物を野蛮人のように捉えてきた。つまり、アート(=教養)とは、人間を人間らしくする知のことであった。教養は学習されるべき知識ではあるが、やがてそれは身体化され知恵として血肉化されることが目標とされてきた。人間が人間らしくなるための知恵が教養なのであり、それを血肉化する技術がまさに芸術(アート)だと考えられてきたのである。アートを身につけるということは、その根本において、他者や自然と共存し共鳴できる、広くて深い人としての思考、共感を育成することに他ならない。




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