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生物の普遍性と人間の条件——宇沢弘文・渡辺格『生命・人間・経済学:科学者の疑義』を読む

渡辺 それはまさしくそうなんです。しかしよく考えると、それはいまいる人間の共存を優先するという考え方になりかねない。それが極端に進むと、いま社会を支配している"正常"な精神を持っている人間の生存を優先するという議論を正当化してしまう恐れもありますね。植物状態の人や精神障害者や恍惚の老人は不必要かつ危険であるというところへ行くと思うんです。
逆に言えば、植物状態の人や精神障害者や恍惚の老人を含めて、人間である以上全部いっしょに共存すべきだということを推し進めていくと、次の段階では人間と他の動植物との共存、さらに地球型生物以外の生物形態との共存、宇宙生物との共存というところまで、論理的にはいくのじゃないかと私は思うのですが。
宇沢 そうでしょうか。僕はやはり、人類というのは自分がその人の立場に立って考えることができるという前提が充たされているという範囲でしか考えられないように思いますね。だから、「人間」というある限定を設ける。人間ならたとえば目が見えなくなったとしたときの感じ方というものを、ある程度推定することができる。そのような状況でどういう感じ方をするかというふうに考えて、共通の感情(コンパッション)を持てるわけです。コミュニケイトできるわけです。

宇沢弘文・渡辺格『生命・人間・経済学:科学者の疑義』日本経済新聞出版社, 2017. p.115-116.

経済学者の宇沢弘文と生物学者の渡辺格の対談『生命・人間・経済学:科学者の疑義』からの引用である。本書の初版は1977年であり、実に48年前ということになるが、現代のさまざまな人間や経済に関する問題を先取りした内容となっている。

宇沢弘文(うざわ ひろふみ, 1928 - 2014)は世界的な数理経済学者であり、「社会的共通資本」の概念の生みの親である。東京大学理学部数学科を卒業、その後スタンフォード大学経済学部助教授、カリフォルニア大学助教授を経て、シカゴ大学教授、東京大学経済学部教授を務めた。その後、新潟大学教授、中央大学教授、同志社大学社会的共通資本研究センター長などを歴任。世界計量経済学会会長を務めた。

渡辺格(わたなべ いたる, 1916 - 2007)はやはり世界的な分子生物学者である。東京帝国大学理学部化学科卒業、東京大学理工学研究所教授、東京大学理学部生物化学科教授、京都大学ウイルス研究所教授を経て、慶應義塾大学医学部教授。日本分子生物学会会長、日本学術会議副会長を務めた。

対談の内容は、経済性優先社会、科学と人間、人間性、国家の役割、科学と社会、弱者、新しい科学に関するテーマなど、非常に多岐にわたる。世界的な経済学者と生物学者が、人間とは何か、生命とは何か、経済はどのような役割を持つべきか、社会や国家の役割はという普遍的なテーマに関して、本質的で深い議論をかわしているため、約50年経った今でもその内容はまったく古びていない。

引用したのは「人間性」をめぐるテーマに関しての対談からである。生物学者の渡辺は、今、いわゆる"正常"な精神を持っている人間だけが優先され、知的障害者や精神障害者などが差別される社会の妥当性に関して疑問を投げかける。それは「生物とは何か」あるいは「普遍的な生物とは何か」という問題とも関係している。生物学者の渡辺は、数学や物理学と比較して、私たちが理解している生物学は、普遍的ではなくある特殊な条件での生物学に過ぎないと主張する。

例えば、地球上のDNAを持つ生命体に関して、すべてのDNAは二重らせん構造で右巻きであり、蛋白質を構成するアミノ酸はすべて光学的に左旋性のL型アミノ酸であるという事実がある。渡辺はこのことが、私たちが知っている生物は、ある特殊な条件下で生まれた特殊な生命体の一種に過ぎないのであり、例えば左巻きDNAを持つ生命体や、もっと言えば増殖や遺伝していかない生命体もあり得るのではないかという。つまり普遍的な生命体というのものを私たちは知らないのである。

こうした観点から考えれば、私たちが"正常"であるという生物を規定し、それ以外の人を障害者と呼んでいるのは恣意的な区別に過ぎないのではないか。いわゆる"正常"な人と知的あるいは精神的な異常とされる人とは連続的なものであり、本質的な区別はないのではないのか、と渡辺はいう。これは現在でいえばニューロダイバーシティの考え方であり、1970年代の段階でそのような考え方に達していたことになる。さらに渡辺は、そうした"正常"な人間を私たちが設定する理由は、今社会を支配している"正常"な精神をもった人間の生存を優先したいという考え方、もっと言えば効率性や有用性を重視した社会を優先したい人々の自己保身ではないのか、と問題提起をする。

一方、宇沢は渡辺の考え方に一定の理解を示しつつも、渡辺がすべての生物、もっといえば普遍的な生命体、宇宙生物との共存という考え方にまで至るとき、それに疑問を呈する。宇沢は、「やはり、人類というのは自分がその人の立場に立って考えることができるという前提が充たされているという範囲でしか考えられない」のではないかという。「人間」というある限定、条件を設定することに意味があるのではないか。人間が持っている特定の条件という足元から物事を考えていくことの重要性こそが意味を持つと宇沢は考える。そのような私たちが置かれた条件の中で、どのように共通の感情を持つことができるのか、どのように振る舞うことができるのかという方が本質的ではないかというわけである。

障害の考え方について、1970年代当時は、英国において障害の「社会モデル」(ディサビリティ)が提唱され始めた時期である。障害の「生物モデル」(インペアメント)が主流だった時代に、障害はむしろ社会のほうが作り出しているのではないか、とする「社会モデル」はその後大きな潮流となる。渡辺の考え方は、その障害の「社会モデル」を先取りしたものであり、障害者に対するアプローチは、むしろ社会のほうが障害者とともに共存できる条件を整えていくほうが大事なのではないかと渡辺は考えていた。一方、宇沢はより現実的な考え方に立ち、短い命しか持たなかった障害者に対しては「親として悲しむよりほかに方法がないという気がします」と述べている。「社会的に解決できることには限度があり、それによって親なり本人なりが苦しまなくてすむというふうには、どうにもできそうもない」と、やや悲観的な意見を述べている。しかし、これもまた現実であり、障害の「社会モデル」だけでは、現実的には障害者の状況を解決できないという現在も変わらない状況に対して、驚くべき先見性を示していると見ることができるのである。



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