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「意志の書」と「運命の書」に引き裂かれている『罪と罰』——亀山郁夫氏『ドストエフスキーとの旅』を読む

事実を明かすなら、『罪と罰』を翻訳中、この小説をめぐる印象は、それこそ一時間ごとに振り子みたいに揺れつづけた。そしてついに、この小説には何かしら究極の答えと呼べるものはないという結論に辿りついた。あるいは、究極が、すなわち答えは二つある、と言いかえてもよい。さらに言うなら、『罪と罰』という小説そのものが、ある時点で真っ二つに裁ち割られているという印象すら受けた。「意志の書」と「運命の書」の二つに。

亀山郁夫『ドストエフスキーとの旅:遍歴する魂の記録』岩波現代文庫, 2021. p.67-68.

亀山郁夫(かめやま いくお、1949 - )氏は、日本のロシア文学者、翻訳家。名古屋外国語大学学長、東京外国語大学名誉教授。日本芸術院会員。専門はロシア文化・ロシア文学。ソ連時代の芸術や文化、特にドストエフスキーについて論評・訳書を多く著している

本書『ドストエフスキーとの旅:遍歴する魂の記録』は、ドストエフスキー文学の翻訳・研究者として名高い亀山氏の自伝的エッセイである。少年時代に初めて『罪と罰』を読んだ時の衝撃から、学生時代の文学サークル体験、ロシア留学時のスパイ容疑事件、プーシキン・メダル授賞式など、自らの人生のエピソードにドストエフスキーの作品世界が重ねあわされながら語られる。

小説『罪と罰』の翻訳の体験を通して、亀山氏は一つの結論に辿りつく。それは「この小説には何かしら究極の答えと呼べるものはない」というものだった。あるいは、この小説は二つに引き裂かれている。「意志の書」と「運命の書」の二つにである。

そもそも、犯罪の全プロセスを「意志」に帰することは可能なのだろうか。おそらくそうではない。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの名前にそれが暗示されている。ラスコーリニコフとは「叩き割られたもの」を意味するのである。主人公自身のなかで、叩き割られた二つの人格が激しくせめぎ合っているのである。一方に、人を寄せつけない「悪魔的」ともいえる自尊心がある。他方に、貧しき人々への痛切な憐れみの心がある。この分裂こそが、『罪と罰』を「意志の書」と「運命の書」の二つに叩き割った正体なのだと、亀山氏は述べる。

では、第一の質問。主人公ラスコーリニコフによる金貸し老女殺しの動機とは何か。小説中にその模範解答がある。それは、何らかの正当な目的があれば、非凡人(=天才)は、その目的を成就するために犯罪的な手段を行使し、凡人の権利を踏みにじる権利を有するというものだ。

第二の質問。作者ドストエフスキー自身に、はっきりとその動機は見えているのか。小説の第五部、主人公の青年が娼婦のソーニャと二度目に会う場面で、彼は殺人の動機を最低でも六つ挙げている。それらは、盗みのため、母を助けるため、ナポレオンになる、悪魔にそそのかされた、理屈ぬきで殺したくなった、自分がシラミか人間かを知りたかった、というものである。しかしながら、亀山氏はそのいずれも正しくなく、作者自身にもその正体は見えていないと論ずる。ことによると、小説の執筆そのものが、「動機探し」としての意味をもっていたのかもしれない。そしていくつもの答えから、読者一人ひとりにその一つを選ばせようとしていたのではないか。そう氏は考えるのである。

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