統治者の視点に立ってしまう私たち—村上靖彦氏の「客観性の落とし穴」を読む
今、話題の本である。
「エビデンス」という言葉とともに某ネットニュースに取り上げられ、表面的な意図しか汲み取れていない人々からは批判されたりもしている。しかし私個人としては、自分が特定の言説にずーっと感じてきたモヤモヤが、非常に的確に言語化されていると胸がすく思いである。
「働く意志のない人を税金で救済するのはおかしい」という言説には、なかなか反対しにくいものがある。それを正義論や障害者・マイノリティ論から反論しようとしても、政治・経済学的な現実として、社会の人々を養っているコストとしての税金があり、上記のような言説が一種の「正しさ」を獲得してしまう。
しかし、現象学研究者としての村上氏は、それに対して、その言説が「統治者」の視点に立ってしまっているという観点から批判する。それは、一大学生でもそうであり、毎日ニュースを読み聞きしている私たちに絶え間なく埋め込まれ続ける視点でもある。
私たちは、いつから「統治者」の視点に立つことが普通になってしまったのだろうか。
社会学的観点からいうと、これは宗教・国家・イデオロギーという「大きな物語」が終わり、現代の個人がバラバラにされている状態(個人のアトム化)とも関連があるだろう。私たちは、何らかの中間団体(階級、会社、組織など)に帰属意識を持てなくなった時代に生きており、あらゆることが「自己責任化」されてしまう時代に生きている。この場合、私たちの社会的状況は「自己責任」にされてしまう。そして、逆説的に、個々の市民はそのように責め立てる「統治者」の視点にも立ちやすくなっているのではないだろうか。
ここでの村上氏の処方箋は、一つは「自らの生活の実感から、あるいは近くにいる家族や友人の視点から社会課題を考えること」であり、さらには「個人の経験やことばを大事にすること」だという。そのためには、「現象学」という哲学あるいは方法論には大きな可能性があるというのだ。私もこれに心から同意するものである。