ヒューマニズムとしての高野聖の思想——五来重『高野聖』を読む
五来重(ごらい しげる、1908 - 1993)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。
本書『高野聖』は1965年に出版された、高野聖(こうやひじり)に関する初めての本格的な研究書であり、五来の仏教民俗学の代表作であり、刊行後「古典的名著」として高い評価を受けたものである。高野聖とは、中世に高野山を本拠とした遊行者である。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進(かんじん)と呼ばれる募金活動のために勧化(かんげ)、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものだった。
五来は本書で「歴史上の高野聖」の実態を明らかにした。それによれば、高野聖は庶民仏教として高野山の寺院経済を支え、唱導教化(しょうどうきょうげ)の宗教活動を行った優婆塞聖(うばそくひじり)のなかで、特に顕著な足跡を日本仏教史上に残した存在であった。中世、高野山を拠点として日本全国を巡り、高野山の因縁を語って勧進(寺院再興や修復の募金運動をすること)した宗教者を高野聖というが、聖は半僧半俗の下級僧侶(俗聖)のことで、念仏聖・鉦打聖(かねうちひじり)・三昧聖(さんまいひじり)などのうち、勧進聖はその代表的なものであった。
高野聖は平安末期から鎌倉末期までの250年間、高野山の中心的存在で、その経済的繁栄と全国的な高野山納骨信仰はかれらの活動によったことを、五来は明らかにした。高野聖は学侶方(がくりょかた)・行人方(ぎょうにんかた)と並んで聖方(ひじりかた)と称されて、高野三方の一つをなしたが、聖は「非事吏」「被慈利」とも記されて、学侶・行人の下におかれて蔑視された。近世になると呉服の行商を営む者が出てきて商聖(あきないひじり)、呉服聖(ごふくひじり)などと呼ばれ、高野聖の特権を行使して宿借りを悪用して強要し、「宿借聖(やどかりひじり)」をもじって「夜道怪(やどうかい)」とも言われた。さらには「高野聖に宿借すな、娘取られて恥かくな」の地口までできて、その品性を落としたと言われる。しかしながら、高野聖は願人坊(がんにんぼう)になって、全国的に踊念仏や願人坊踊をひろめて、念仏芸能を伝播した功績を五来は最後に指摘している。
本書を契機にして、今後は聖階級を主役とした日本仏教史の確立、ひいては底辺の庶民に視点をおいた日本歴史が書かれるべきであるとし、「五来史学」ともいうべき今後の歴史学の研究のあり方の展望を、五来は熱く語っている。「五来史観とはヒューマニズムを根底に置いた庶民史観であったと言えよう」と、解説で上別府茂氏は書いている。
五来は「大乗仏教とは一種のヒューマニズムであり、自我をすてて他に奉仕する人間愛であるとおもう」と述べる。これは大乗の戒律が「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」または「饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)」を究極とすることにあらわれており、自我を滅してヒューマニストになるための方便としてのみ戒律は意味があると考えることによる。従って、戒律を守らないうえにエゴイストであるのは論外であるが、ヒューマニストとしての人間愛から社会的作善をおこなうかぎり、戒律は絶対的なものではない、という思想が聖にはあったのだと、五来は考えるのである。