『二〇世紀アメリカ文学を学ぶ人のために』山下昇/渡辺克昭編(世界思想社)
*本稿は日本アメリカ文学会発行の『アメリカ文学研究』に寄稿した書評の再録です。
本書は世界思想社の「学ぶ人のために」と題された叢書の一冊として刊行されたアンソロジーである。元来この叢書には、岩山太次郎氏編纂の『アメリカ文学を学ぶ人のために』(1987)がラインナップされていた。あとがきによれば、本書は当初その新版として企図されたが、「企画の段階でもっと現代に特化したものが求められていることを痛感し」、対象を20世紀に限定したということである。前著から約20年弱、その間にアメリカ文学研究の関心、対象、方法論などが大きく様変わりしたことを反映した判断であろう。
本書の構成もこの新たなアメリカ文学研究のあり方を反映している。特徴としては二点挙げられる。まず全体を四部構成とし、それぞれを「時代」(初頭期・モダニズム期・ニューディール期・第二次大戦~冷戦期・ポストモダン期)「多文化主義」(女性・アフリカ系・ユダヤ系・先住民族・アジア系)、「多様なジャンル」(批評・詩・演劇・映像・環境)、「越境」(クイア、カリブ、村上春樹、翻訳)というキーワードで構成していること、もう一点はいわゆるケーススタディ形式を採用していることである。
前者の構成について、編者の一人山下氏は序文で、「白人男性作家を中心とする北部・東部中心」の通時的記述を中心とした旧来の文学史と一線を画し、多様な視点から文学史の再構築を目指した『コロンビア米文学史』の精神を受け継いだものだと述べている。通時的記述もその他の手法と同列に、あえて文学研究の一方法として扱うことで、多方面からのアプローチが文学研究を支えている現状を反映しようとする意図であろう。
後者については、各章ともまず冒頭の数ページ(約三分の一以下)で時代やジャンル、理論的背景などの概説をコンパクトにまとめ、その後の大部分は個別の作家・作品の分析評価に費やす。こちらは具体的な作品・作家の「おもしろさをコンパクトに紹介する」という方針に則った手法であろう。最近出版される各種の入門書でも、このケーススタディ形式をとるものが目立つ。山下氏によれば本書が対象としているのは、これからゼミや卒論のテーマを選択しようとしている「現今の学生や若い読者」、つまりアメリカ文学の初学者だ。そうした初心者を「まずは親近感がもてる身近な作家・作品から入門」させ、次第にその先に広がる芳醇な古典の世界、「さらに広くて深いアメリカ文学の世界」へと誘うのが目標である。そのためにまずは、ケーススタディという形式で論じる対象を限定し、研究の方法や実例を示す。そこでさまざまな話題や視点を提供しながら、その背後にある広い学際的領域の一端に触れさせ、興味の対象を広げるという意図であろう。
そもそも現代アメリカの作家・作品に「親近感」を持ってくれる学生が今の時代にどの程度存在するか、すでに出発点からして困難を孕んでいることはさておく。「身近」な話題から理論や歴史的研究へと発展させるのは、例えば文化研究などでは効果的かつ一般的な教授法であり、この方針そのものは首肯できる。
とすれば重要なポイントは、学生が「身近」と思う問題と、本書がイメージする初学者向けの内容・テーマがどのていど共振しているか、学生の興味をひきつける「つかみ」として成功しているか否かであろう。この点を念頭に置きながら、より詳細に本書の内容を吟味していこう。
先にも述べたように、文学研究の現状を踏まえその多様性を紹介するために、本書の構成の仕方は当然の帰結である。本書のテーマのひとつは「越境」であり、山下氏も「アメリカ文学も、より越境的でハイブリッドなものとなることが必至であろう」と序文を締めくくっている。山下氏の言う「越境」とは地理的な概念のみではなく、ジャンルや学問領域の「越境」も含むもののはずである。とすればここは「アメリカ文学研究」と言い換えてもよいであろう。
その観点からすれば、第2部「多文化主義の文学」も第3部「多様化するジャンル」も、一種の「越境」的研究である。第2部から第4部で各論者が示しているのは、まさにジャンルを越境した現在の文学研究のあり方の実例である。そして評者の経験からも、たとえば人種や民族、ジェンダー/セクシュアリティ、政治や歴史など他の研究領域との接触、あるいは大衆文化やポップ・カルチャー、映像文化など他ジャンルとの比較や相互影響の検証など、「越境」的研究が今後ますます重要となるであろうし、学生の関心も高い。
翻って第1部「時代を映す鏡としての文学」は、一見旧来の時代的構成を踏襲しているようでやや異質に映る。個々の章の前文に当たる概説でも、時代的・社会的背景に関して中庸的な記述が多いため、さらにその印象が強いのかもしれない。しかしながら一方で時代順の構成をとりながらも、20世紀という時代を統一する歴史的視点が各章で共有されているわけでもなさそうで、それぞれ執筆者の個性が色濃く反映された記述となっている。たとえば1章や3章はいわゆる古典的な歴史的記述をまず展開し、アメリカ社会の変貌や展開を論じるが、2章や4章では同様の記述はほとんどない。5章も序論は現代思想的解説に終始し、戦後社会の表面的な動きには関心がないようである。言い換えると、第1部全体で描き出される20世紀アメリカの姿は、ひとつの像として焦点を結んでいるとはいいにくい。通時的文学史を成立させることの困難さを、身をもって示しているのかもしれない。だがそれぞれの章は独立したエッセイとして読み応えのある力作が揃っているのだから、ここは通時的構成にこだわる必要はなかったのではなかろうか。また序文で20世紀後半のアメリカ文学を「ポストモダニズム」と一括りにし、その多様性の証左として多文化主義やジャンルの混交、越境の問題などを持ち出すのは(個人的にはたいへん面白いが)、大いに議論の分かれる部分だろう。
また第3部では多様なジャンルの例として、詩、演劇、批評が個別の章で取り上げられている。ということは、本書でいう「20世紀アメリカ文学」とは畢竟「小説」であることは明らかである。もちろん現実に、文学すなわち小説という固定観念が強固に存在することを考えれば、これは無理からぬところである。だが詩や演劇というジャンルの重要性は現代でもいささかも失われていないことを考え合わせれば、もう少しスペースが与えられてもよかったのでは、という思いも残る。20世紀アメリカ詩の潮流をわずか十数頁でまとめている12章「現代詩の潮流―声の諸相を聞く」を読むと、執筆者の長畑明利氏の力量には感服するばかりだが。
14章の「映像文学」という題の選択については、やや違和感を禁じえない。まだ一部で使用されているのみで一般には馴染みがない用語である上、その内容も既存の映画研究とどこが異なるのか、かつてこの用語の元に一文を物したことのある評者でも(無責任な物言いだが)判然としない。執筆者の西谷氏は「映画研究をより包括的に文学研究、あるいは文化研究へと連携させようとする」試みと説明している。だがその西谷氏のエッセイ自体が、小説と映画の比較から始まり「映画が映画になる瞬間」、つまり映画と文学は違うのだ、ということを鋭利かつ明快に分析した映画論・映像理論の入門用テキストとなっているのだ。内容からするとタイトルは「映像と文学」で十分かと思うが、いかがなものか。
本書は他分野との領域横断的な視点から、新たな文学研究のあり方を提示した書物として企画されている。各章とも余人を持って変えがたい人選で、執筆者の水準の高さと編者の鑑識眼の確かさは賞賛に値する。もちろん「文学」の授業では文学そのものの楽しさを伝えるべきだというご意見もあって当然かと思う(私もそういう授業は好きである)。だが本書は「さらに広くて深いアメリカ文学の世界」へといたる導入として何ができるか、という視点から編纂されたものである。その出発点に立てば、上述のように第1部や第3部などの細部にやや消化不良の感はあるものの、新たな文学教育のテキストとしての方向性を明確に示しているといえる。
だが評者には一読後、どうしても拭いようのないかすかな戸惑い、あるいは困惑ともいうべきものが残った。それは本書の問題というよりも、アメリカ文学(研究)がおかれている状況そのもの、そして教師でもあり研究者でもある評者がその状況の中で感じている二律背反のようなもの、それがどこからともなく響いてきたからかもしれない。先の学生と教師の「共振」の例でいけば、両者の間のわずかな不協和音。
たとえば以下の文章、「ハイパーメディア時代を彩るこのような危うい『表層性』をあえて浮き彫りにすることにより、地球規模で展開される後期資本主義の論理、すなわち金融資本と情報の流動化が、現実に先行する表層イメージの消費を通じていかに主体を液状化してしまうか」(5章、渡辺克昭「ポストモダン文学への誘い―『黒い時計の旅』をめぐって」)を一読して理解できるためには、読者がリオタール、ボードリヤール、デュボール、ジェイムスンらポストモダニズム論者の議論にある程度精通している必要があろう。それはより専門性の強い論文になり、本書の「初学者向け」という編集方針を逸脱してしまうという意味である。
初学者向けの教科書という編集方針と、研究者としての矜持をいかに両立させるかについて、確かに全員がまったく同一の基準を共有するのは至難の業であろう。この点についてのエッセイ間の微妙な齟齬が、そのまま執筆者の置かれている教育・研究環境を(そのままではないにせよ)反映しているように読めてしまう、というのはいささか穿ち過ぎか。
だが、最新の研究成果をそのまま提示できる授業やテキストを望む「理想」がある一方で、目の前の学生のレベルに合わせた教材や講義を用意せざるを得ない「現実」がある。この狭間でいまだ着地点を見出すのが難しい評者にとって、本書は現在の「アメリカ文学研究」と「教育」の関係のあり方のみならず、今後の有り様や行く先を示すものとして、本書はよき指標となるであろう。
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