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「できない」から「できる」への橋渡し
『文藝』2024春号の対談『ブレる心、裏切る筋肉』(伊藤亜紗×羽田圭介)を読んだ。
読んでいて気になったこと、最近考えていることにクリティカルに刺さる部分があった。
「できない」から「できる」
「できない」から「できる」になるにはものすごいジャンプがあるんです。「できない」というのは、一度もやったことがないから、脳が体に命令を出せない。体からすると、脳が命令を出してくれないから当然できないわけです。そこで脳と体の協力関係みたいなものが一旦ぶっ壊れて、暴走した体が「あ、こういうことか。なんかできちゃた」という感触をつかんだときに、最初の「できる」が起こる。むしろ身体が意識を裏切って制御を外れていくと、成功するわけです。そしてそのファーストコンタクトを反復することで「できる」の再現性を高めていく。すると「できるようになる」。
1か月前にも「できない」から「できる」について、読んだ雑誌を参考にしながら書いた。
ここでは、まず「自分が何ができるのか」を内省することから始める。
その上で、「できるまでに足りないことは何か」「既にできてもいいこと何か」を考える。
そうして、自分ができないこと(理想)へ向かって、できること(現実)を延長させていく作業が「できない」ことが「できる」だと解釈した。
(正確には「できる」→「できない」→「できる」というステップ)
しかし、今回読んだ「できない」から「できる」は暗中模索の中の偶然と呼べるものだと感じた。
体をどうやって動かせばいいのか分からない。けれども、やっている内に感覚をつかんだ。それを繰り返すことで再現性を高める。
これは自転車の乗り方に似ているように感じる。とりあえずこいで、こける。それを繰り返す内によく分からないけれども、バランス感覚をつかんでこけなくなる。そのバランス感覚をつかんだこぎ方を繰り返して行うことでどんな場面でもこけなくなる。
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引用した発言のあとに元プロ野球選手の桑田真澄さんのボールの投げ方について言及がある。どうやら本人が思っているボールの投げ方と実際の投げ方が違うのだと言う。
これはスポーツをやっていた私も感じることで、自分が理想としている動きと実際の動きが全然違って、自分が気持ち悪いと思ってしまった。
『分かっていることを始点にする』を書いてからは、
「そうか、体の動きを頭で理解せずに感覚まかせでスポーツをしていたから上達しなかったのか」
「休み明けに感覚がおかしくなるのは、全て体まかせにしていたからなのか」
と、今さらながら、学生時代のヒントを得たような気がしていた。
同様にメジャーリーガーのダルビッシュ有選手の投球練習を見て、「やはり、頭を使いながら感覚を調整しているのだな」と感心した記憶がある。
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個人的に3月の終わりから、タッチタイピングをできるようになりたいと考えて毎日地道に続けている。
指の位置を覚えることから始まり、打ちながら自分がどの指を動かしながら、どのキーを叩いているのか確認する。これまで無意識や、感覚的にやっていたことを言葉で書き起こして、意識しながらやっている。
当初予定していた練習量よりも2~3倍程度やっていることもあって、3ヶ月で目標としていたことも1ヶ月で達成した。
今も当時に書いたことは覚えている。
「まるで広告や他の人のブログで言われているような「◯ヶ月で完璧マスター!」的な感覚を味わうことができた」、と書いた記憶がある。
でも、こういったことは自分の習得方法にあったやり方で取り組めただけで、万人には受けないと今でも思っている。
今もタイピングは別の目標を見つけて続けているのだが、3週間くらい停滞している。また別の方法が必要なのかもしれないが、私には分からない。けれども、感覚だけを頼りにしている時と比べると習得速度は間違いなく上がっているように感じる。
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私の話は、体と脳の両方を使った「できない」から「できる」への橋渡しだ。私にとっては、これが今知っている最善の方法だ。
だが、たまたまタイピングで上手くいっただけで他のことにも使えるかは分からない。
たとえば、先にも挙げた自転車を例に考えてみる。
自転車はバランス感覚を保ちながらペダルをこぐだけで乗れるものと思っている。
自転車のキモはバランス感覚で、これを身につけられるかどうかだと思う。
というのも、ペダルをこぐことは歩いたり、走ったりすることに似ている。今思えば、「重いものを背負って歩く」という感覚でこけばいいと理解している。単に歩くのと違って足の回転が遅いので「重いものを背負う」とたとえた。
では、バランス感覚はどうか。言葉にするのは難しいが、「片足立ちする感覚を自転車と一体化した上で持つ」となるだろうか。パッと思いついた言葉としてはこうなる。
一応、感覚を言語化してみた。この通り動かしているかは分からないが、自転車のペダルは自由自在には動かないので、誰が乗っても大きく動かし方は変わらない。
「想像どおりの動かし方」という点では、野球のボールの投げ方よりも自由度は低い。自転車の乗り方のフォームというべきものはみんな似たよったりなものになる。
では、「動かし方が固定化されているものはみんなができるものなのか?」という別の問題が脳裏をよぎったが、今は考えないでおく。
自転車を例にして考えてみたが、自分が「できる」ものはパッと体の動かし方が言語化できた。
ここで、過去に上達しなかったスポーツを考えてみると、画一的な動きには対応の仕方が分かるが、型から外れると途端によく分からなくなる。そう考えると、私にとっては上達には言語化は必要なことかもしれない。
逆に考えて、どこか「できる」ラインを越えたら言語化できるようになったと言ってもいいかもしれない。
『文藝』の引用に戻ると、「なんかできちゃった」の再現性を高める。それが自分の中で起こるとアレコレと応用がきいて「できる」ようになるのかもしれない。「あ、そういうことか。これがこうなっている。なぜならこうだから。」というように。
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今回書いたことは全て、[体を動かす]→[言語化]→[できる]という例になっている。その点で考えれば、「できる」ためには「とりあえず、やる」も間違ってない。
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2種類の「できない」から「できる」への道筋。
・「できること」を考えて「できない」へ応用する方法。
・ひたすら「できない」をやり続けて、偶然「できる」を発見する方法。
どちらも経験したことのあることなので、どちらも正解なのだろう。
しかし私の経験上、前者は知識としての理解、後者は体としての理解と違いはある。
知識としての理解はこの記事では書いていない。
例えば、文章を読んで「理解できない」と感じた時は、「その文の前の文章は理解できているのか。できているとすれば、今読んでいる文章の場面が変わったからなのか。それとも、読んでいる文章に意味の分からない単語、言い回しがあるのか。など、自分が分かっている地点を探す作業をする。
何か物語を見ていてもそうだろう。ここまでの話は知っている。この先は知らない、と自分が分かっている地点から初めて、分からないところへ進んでいく。