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【日記】舞台に立つ機会

お祭り会場でのこと。プログラムを見ると、地元の中高生の吹奏楽部による演奏会が予定されていた。

大人が子どもに言う「こんな機会は中々ないよ」は、「舞台に立つ機会」を指しているのかもしれない。大人になってからステージに立って何かをやることは難しい。

大人はお客さんにしかなれない。

大人になってから、ステージに立つには自ら団体に入って、成果を残してやっと手に掴めるものだ。

子どもにとっては「部活に入部して練習する」それだけで機会を獲得できる。

「若さは価値がある」と言われるが、それは誰しも年老いてから初めて分かるものだ。

誰もが価値ある状態から始まり、条件によって選別されていく。そして気づけば、価値ある人と価値がない人に分かれていく。「あなたに価値があるか?」と言われる場面においての「価値」は、社会にとって価値があるかないかで、人類にとって価値があるかないかは別問題だ。だが、これは気づきにくい。

先日読んだ、戸谷洋志『生きることは頼ること 「自己責任から「弱い責任」へ』で、ジュディス・バトラーが考える「自己」とは、自分が守るべき相手と認識したものとされる。

それは自分だけでなく、親や配偶者、子ども、友達、ペットも含まれる。自分の恋人や友達、子どもが誰かから罵倒される場面を思い浮かべると分かる。真っ先に出てくるのは相手に対して「それ本当?」という気持ちで、むしろそんなことを言うやつの方が怪しいと思う。

自分のアイデンティティが傷つけられたように感じる。だが、反対に何かを境にその人が傷つけられてもいいと思う瞬間がある。

そう思うとき、自分は大多数(社会)の中にいて、何かしら貢献をしているのに、その人はしていない。この差別を産み出しているのが「価値」という視点なんじゃないだろうか。

私たちは生まれたからずーっと社会の何かしらのシステムの中に組み込まれている。子どもの内はそれが全て(例えば学校)だと思うし、大人になっても同じようなシステムほ中で人が集団を成している。その中で自分の価値を感じてもらえないと、生きていくのが難しく感じる。そんなときに私たちは、「社会的」に価値がないと判断される。誰かから見て、傷つけても問題のない対象に変わる。

社会にとって価値がなくなったとして、人類として価値がないのか。人類の価値は社会によって決められているように感じる。

何かで読んだ「社会からは疎外されていても、人類からは疎外されていない」という言葉。たとえ社会的に生きていけなくなって、孤独になったとしても、人類からは孤独になっていない。同じ「人間」には外に出れば会える。

「社会からは疎外されていても、人類からは疎外されていない」という文言がどういう文脈で出てきたのかは覚えていないが、私はポジティブに捉えられた。社会から孤立したとしても、人類からは孤立していない。極端な話で言えば、社会から「お前は価値がないからいらない」と言われた瞬間、私が知らない生命体だけが住む、どこかよく分からない場所に飛ばされるわけではない。

自分が舞台に立てなくなったとしても、私はお客さんとして、舞台を見る側には立てる。そしてそれを理解することができる。見る側においては、自分が社会から疎外されているかどうかは判別できない。他のお客さんを私も判別できない。私は人類からは疎外されていない。

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