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「何か」を書くことの難しさと正体
なんやかんや毎日投稿している。
習慣で取り組んでいることを定期的にアップしているのが大きい。
以前に毎日投稿を止めたい、と書いた。今考えると、「毎日何かしらをアウトプットするのが辛いんだろう」ということに落ち着く。
そういう意味で、毎日投稿することは「書く体力」「考える体力」が身につく、と言っているのは間違いない。
さらに言えば、「考えたことを表現する力」も身につく。さらにさらに言えば、書いたことに対して反応がもらえれば「相手にとって伝わりやすい文章を書ける力」も身につく。
冒頭で、なんやかんや毎日投稿できているのは、習慣で取り組んでいることのおかげだ、と書いた。
これは、自分がやっていることに感情や考えたことを乗せるだけで書けるからだと思う。
それに比べて、「毎日何かしらをアウトプットする」というのは、日常を切り離して、非日常的なことを探している側面が大きい。
いつもやっていること=同じこと、とザックリと判断し、特段何も変わらなかった。だから、書くことがない。という思考回路になっている。
加えて、「身バレをしたくない」という縛りを設けている。つまり、書くネタを自ら無くしている。だから、書くことがない。
ここで、ふと疑問に思う。
習慣でやっていることは、「物事」を狭めて書きやすくなっているのに、「何かしらを書く」となった途端に、「あれでもない、これでもない」と日常を削り、身バレを恐れることで、書くことが無くなっている。
同じように書く対象を狭めているのは変わりないのに、後者になると途端に書けなくなる。
とても不思議に感じる。
後者の目線から考えれば、習慣は日常なので、特段やっていることは変わりがないと見ている。抽象的に見れば、四季報写経してるとか、タイピングしてるとか、英語動画見てるとか、確かに変化はない。
けれども、もう少し細部に目を凝らせば、写経している会社が違う、タイピングの練習問題の傾向が違う、見ている動画の内容が違う。と、変わっていないように見えて、やっていることは変わっている。
こう考えることもできる。あれこれ書くことを削ったことで、書くことがないのは、私の人生がそれだけで構成されている、とも言える。それ以外のことを考えずとも、何ら問題なく過ごせている。だから、考える必要がない。
もちろん、身バレの問題から書くに書けない状況も取り除かれている。
ということは、「どうでもいいことを考える暇がないのではないか?」
(ここにも、「こんなことを投稿すること?」と自分を縛りつける要因は存在している。)
()内も含めて、「何かしらを書く」となった途端に、何か有意義な特別感のあることを書くことを自分に要求している。
それは、「何か書く」ではない。「何か有意義な特別感のあることを書く」になっている。だからこそ、あれこれ頭をひねくりまわしてそれっぽいことを書いている。
もちろん、何も思いつかないこともあるし、「うわ、いいの書けちゃった」と思い込むこともある。
あとあと見返すと印象が変わったり、変わらなかったりもする。
以前『毎日投稿していると止めたくなる』で書いた、「読み返してみるといいこと書いてる」はまさにこれに当たるのではないだろうか。
*再掲
このひねり出したことを踏み台にしてさらに考えることで、「あー、こういう見方もできたか」と、さらに考えを深めることができる。
別視点として、日常から非日常を発見することもある。
日常に行ってることに疑問を持ち「なぜ?」と問いかけることだ。これも投稿するアイデアの1つになっている。
アイデアの核となるものを事前に用意できただけであって、中身は真っ白。なので、結局は考えをめぐらせて想像することが必要。
つまり、普段「書くことがない」と言っている時は、「有意義で非日常的なアイデアを探し、それに対して考えをめぐらす」という2ステップを行っていることになる。
それが辛いのは当たり前だ。誰もそんなことを毎日やりたいとは思わない。だから、「考える体力」もつくし、「考えを表現するチカラ」がつくのも当然と言える。
こうやって書いてみて、また1つスッキリした。
P.S.
本当は「毎日更新できているんだろうけど、なんか想像してたのと違う」的な方向から書こうと思っていた。けれども、書いてみるとMっけがあったのか?と思ったりする。