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「自分のために書く」ということ

私がnoteに文書を書くのは「自分のため」。しかし、自分で書いた記事を読み直すことが少ないことに気づいた。

先々週に熱が出てお休みしていた(もう2週間も経ったのか...)。治ってから1週間と少しだが、また体調が悪くなってきた。夜中に一度寒気を感じた。また熱が出たと認識するのが嫌で熱は測らなかった。朝になると、寒気はなくなっていたが、どこか気だるさを感じていた。

そんなこともあり、出かけたついでに図書館に寄るのを止めて真っ直ぐに帰宅した。家に帰っても、何もやる気がなく、最低限の身の回りのことをしつつ、ベットで図書館から借りた本を読んだ。

体調を優先して図書館に行くことを止めたわけだが、予定通り、借りてきた本を全て読み終えてしまった。手持ちぶさたになって向かった先は、家にある本だった。

家に積読本は何冊かあるものの、全く食指が動かない。そこで向かった先は既に読んだことのある本。今、平野啓一郎『私とは何か』を読み直している。

読んでいる本とは関係はないが、読みながら、「何度も読みたい本は家にあるか。そういった本たちが自分を作る。」みたいな言葉を思い出した。

というのも、読みながら「今日のnoteに何を書こうか」と頭をよぎっていたからだ。常に頭の片隅で何かを考えるとは、ふとした瞬間に自分の課題だったり、テーマについて考えてしまうことを指すのだろうと思ったりもする。

そんなことはさておき、「何度も読み直す本」と「今日何を書くのか」の関係性は、最初に書いたように、「noteに書くのは自分のためであって、自分のために書いている文章を読み直さないのは、本当に自分のために書いているのか?」ということだ。

読み直しはしていないものの、[これからも考えていきたいこと]マガジンなるものを作って、書いた時に「これはいい!」と直感で感じた記事を貯めている。

私は「座右の銘はなんですか?」とか、「大切にしていることはなんですか?」とか、「絶対に譲れないことはなんですか?」とか、自分の芯になるような質問にパッと答えられないたちだ。
(そもそも答えられる人がいるのかすら分からない。インタビューの想定質問に答えるために、でっち上げている人の方が圧倒的大多数なんじゃないかと思っていたりする。しかし、大きなことを成し遂げる人は何かしらの信念を掲げながら活動していることは間違いないと思う。言葉としてパッと出てくるかは別にしておいても。)

そんなこともあって、「自分の芯になりそうなことだけれども、多分忘れること」をマガジンにまとめている。これもこれで、いざ聞かれたときのでっち上げには近いが、その場限りではなく、本当(?)の芯に近いと思っている。

このマガジンに登録してある記事は全部で25本。バーっと投稿日だけを読み返したが、5ヶ月前以上のものかほとんどで、最近は全くない。ということは、自分のために書いている記事が少ないということになる。そんな簡単に芯になるような記事が書けるとは思わないが、頻度はダダ下がりだ。

マガジンを作ることで、公開設定をするときに嫌でも目に入る。にも関わらず、今日の今日までそこまで気にしていなかった。私のように、記事ごとに律儀にマガジンに仕分けして投稿する人は少ないように思う。もちろんいるが、体感では10%もいないんじゃないかと感じている。記事ごとに必ず何かのマガジンに入れているのにも気づかない。本末転倒である。

何回か書いているが、「手段と目的が入れ替わっている」ことは自覚している。私にとって、投稿するのは手段であるにも関わらず、投稿することに目的がすり変わっている。

投稿が目的になっていることを肯定する話になるが、イラストレーターの落書きが一般人目線からすれば立派に見えるように、将来の自分から見たら、毎日投稿している過去の自分の文章が素晴らしく見えるかもしれない。

自分が大したことないと思っていることが他人にとっては、たいそうなことであることのように。それは、将来の自分から見ても立派なことかもしれない。

絵も時代によっては評価のされ方が違う。同じように過去の自分が今の自分、将来の自分を救うようになるかもしれない。そんな思いがある。

こうやって考えてみれば、今の自分には刺さらない文章が多いのかもしれないが、もっと先の自分から見たら、刺さる文章も増えるのかもしれない。

常に今の自分にとって必要な文章を書き続ける必要はないのかもしれない。

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