
下津井のタイラギ漁ー親子3代の潜水漁-

「ことしもタイラギの撮影に来たんじゃな。今シーズンは少ないんよ。20~30年前は、このカゴに60杯くらいとれようたけど、今は20杯とれればええほうで…」。
晴れの国岡山とはいえ、ねずみ色の雲が低くたれ込む12月中旬、瀬戸大橋の真下にある港を訪ねると、10人ほどの漁師が集って船着き場でタイラギ貝の出荷作業をしている。



下津井というところ
児島半島の先端に位置する下津井は、古くは長浜と呼ばれ、海とともに暮らす人々が切り開いてきた漁業のまち。
この土地の漁民たちは、塩飽衆の船に乗り込んで、大坂や加賀、越中などに向かい「船稼ぎ」をする者も多かったという。
江戸時代には、北前船の寄港地としても栄え、今も商家の町並みが残る。

この下津井沖で漁獲されるタイラギ貝は、潜水服を着た漁師が、10メートル以上海へ潜って獲る。カイバシラとも呼ばれ、キロ5000円前後する高級品だ。主に九州の市場へ送られるという。
「これ、チンチンのかたちに似とるじゃろ」。
若い漁師が冗談を飛ばしながら作業の様子を見せてくれた。



タイラギ貝は、水揚げされた直後に船上で貝殻から貝柱を取り外し、さらに港に戻ると貝ヒモを取り除いたり、肝を取り除いたりする作業が待っている。ミソトリというこの作業は、すべて手作業で、細かい汚れや内臓をはさみで丁寧に取り除いていく。
「これ、ほんまに大変なんっすよ。一日やっとったら鬱になりそう」。
どうやら、仲間と冗談を言い合いながら作業しないと、心が折れるらしい。この作業を見ればキロ5000円という値段も納得だ。
「船に乗ってタイラギ漁を撮らせてももらえませんか?」
意を決して、漁師の山下さんに聞いてみると、何のためらいもなく許可が出た。
「潮がはやい今は、潮休みで漁がないんよ。潮が落ち着く来週から漁が再開されるから、それ以降に来てよ」と漁師さん。
一週間後に乗船の約束をして、下津井を離れた。


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タイラギ漁当日

一週間後の12月20日、再び、約束の時間に港を訪ねた。
集合時間は、朝6時30分。
冬至を迎えたばかり。あたりはまだ暗く静まりかえり、放射冷却で一番底冷えしている。
前の週に撮影の約束をした山下さんを港に訪ねると、「きょうはな、もっとええ漁師一家を紹介しちゃるけん、車で送ったげらあ」。
車で5分ほどのところにある別の港へ案内してくれた。
この日乗船するのは、「山形丸」。
甲板では、すでに、漁に向かう準備が始まっている。
そこには、まるで宇宙服のような分厚い潜水服を着た男性が、一人どんと腰掛けている。山形敬太さん23歳は、本格的に海に潜り始めて2年ほどの新米漁師。
父・文雄さん54歳に、潜水服のボルトをきつく締めてもらう。





山形丸を操る山形家は、代々、漁をなりわいとしてきた。いまは、親子三代で漁師をしている。
12月から4月は、潜水でタイラギ貝やミル貝。4月から5月はフグ。6月から9月は、コマセ網という漁法でマナガツオを獲る。
船を操るのは、敬太さんの祖父・剛さん84歳。
「漁に出て74年じゃな。ずうっと漁師じゃけん、それ以外のことはなんにもできんのよ。17歳からは潜りをしょうるけど、当時はわしが先駆けじゃったけんな」と話しながら船のエンジンをふかす。
下津井の港から30分ほど船を進めた高梁川の河口付近が、きょうの漁場だ。

さきほどまで真横にあった瀬戸大橋が次第に小さくなり、水島コンビナートの煙突が近くにみえている。気がつくと、あたりにはいくつもの漁船がそろい、7時半の漁の開始を待っている。
香川県の与島や本島など、様々な漁港に所属する船があちらこちらで揺れている。
「あの船の潜水士は、九州の有明からきとんよ。平日、潜りをして、週末は佐賀に帰る生活を繰り返しとる。漁師の家の二階とかに泊まり込んでな」と、文雄さんが教えてくれた。
有明海はかつて、瀬戸内と並ぶタイラギの産地だったが、諫早の水門を閉めて以降、まったく獲れない厳しい状況が続いている。
日が登り、あたりが明るくなり始めた7時30分。
直前までタバコをふかしていた敬太さんは、足腰におもりをつけ、潜水服の重厚なヘルメットをかぶると、あっという間に海のなかへ--。



「息子さんは何分くらいで上がってきますか?」と父の文雄さんに尋ねると、「下手したら漁が終わる午後2時まで上がってこんで」。
午前7時30分から午後2時までと定められた漁の時間を一秒たりとも無駄にしたくないという。
敬太さんが身につけている潜水服には、一本のホースがつなげられている。
このホースからコンプレッサーを使って空気を送り、水中で長い時間、呼吸ができるようになっている。
「タイラギはだいだい水深10メートル前後の場所で獲るんよ。意外に明るくて、ライトがなくても貝は見えます。2月になったらミル貝も獲るけど、それはもっと深い場所。ヘルメットのライトをつけないと貝は見つけられません。深く潜るので、年に1度は、潜水病にかかります」と文雄さん。
船の後方には、潜水病にならないための減圧機も設けられている。

「西日本豪雨のあとは、高梁川から真水が流れ込んできて、豊漁じゃったんよ」
「白ミル貝を獲らせたら、わしの右に出るもんはおらんで」。
文雄さんは、そう誇らしげに語りながらも、潜水の役割を数年前に息子にゆずったという。
17から漁を手伝い、前年に「俺にやらせてくれ」と父に頼み、潜る役割を譲ってもらった。潜水士の免許も取得した。
「でも、やっぱり心配よ。だから私も船に乗り始めたんよ。それまでは義母が乗ってたんだけど、心配で…」。
そう話しながら、敬太さんの母・久枝さん54歳は、じっと海中をのぞき込む。

穏やかな瀬戸内の海とはいえ、この日は西風が少し強く、次第に海がうねりはじめる。
そして、海中には、大きな空気の泡がボコボコと湧いている。
敬太さんが、通気口から吐き出した息の泡だ。ヘルメットの内側にあるボタンを頭の傾きで押すことで、定期的に空気を吐き出す仕組みらしい。
この作業を行わないと、ヘルメットのなかに空気がたまり、あっという間にからだが浮いてしまうという。
漁の様子は船上からは見えない。「シュコーシュコー」という敬太さんが息をする音だけが、船のスピーカーから流れてくる。
祖父の剛さんは、操舵席に座らず常に中腰の姿勢。敬太さんが吐く息の泡をひたすら目で追っている。
船と敬太さんの距離が離れすぎても、近すぎても危険が伴うため、常に敬太さんの位置を泡で把握し、泡の動きにあわせて船をゆっくりと動かしていく。
剛さんは、漁が終わるまで、泡からほとんど目を離すことはなかった。




一方の敬太さんは、海中を歩き回りながら、タイラギを探してゆく。
泥質の海底に刺さったように棲息するタイラギを鎌のような道具でかぎ取っていくらしい。
潜水服の総重量は60kgにもなるため、冬の海のなかとはいえ、汗をかくという。
しばらく海底を歩き回って獲った貝は、スガリという袋状の網に入れられ、この袋がいっぱいになると、スピーカーを通じて船上に「アップ」と合図を送り、網を引き上げてもらう。
長さ20cmほどの、バチ状の大きな貝が、ガラガラと音を立てて船の上になだれ込む。
「前は、港へ戻ってからミソトリしとったけど、今は、量が少なくて暇で…。水揚げを待つ間に、船の上で全部作業してしまいます」と文雄さん。
最近は不漁続きだ。
近年では、唯一西日本豪雨の年だけが豊漁だった。
「豪雨で泥が高梁川から流れ出たのが理由なのかなぁ。真水と山の環境も大事やね」と文雄さんが陸地の方に目を向ける。



幾度か、スガリの上げ下げを繰り返して4時間半--。
敬太さんは、7時半に海に入って以降、一度も姿を見ていない。
ようやく水面に姿を現したのは、お昼頃。ほかの漁場に移る数分の間だけだった。タバコ1本とスポーツドリンクを口に含んで一呼吸。ふたたび、海の底へ戻っていった。
その後、さらに3時間ほど水中で漁を行って、この日の漁を終えた。

船上に戻った敬太さんは、古い炊飯器で保温していたお湯で、すぐに道具や体を温める。
母が手渡した遅いお昼ご飯、カップラーメンをすする敬太さんの手は、驚くほどブヨブヨにふやけていた。


港へ戻ったあと敬太さんに、どうして継ごうと思ったのか聞いてみた。
「ずっと、家族が漁師をしょうたんで、やらにゃあいけんと思って。まだまだ慣れんのですけどね」。
船の上ではうねに真剣なまなざしで、一度も笑顔を見ることはなかった敬太さんだが、このときは、照れくさそうにはにかんだ。


(2020年12月撮影・取材)
※内容と年齢等は、取材当時のものです