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おわっていくお役目と、あたらしいお役目

こんにちは、Soniiです。
いつもありがとうございます!


わたしは、できれば、あまりひととかかわりたくない、と思っていました。その方が、いやなものを、みなくてもすみます。いやな目にも、あわなくてすみます。

スピリチュアルなものによって、疲れてしまって、数年前からは、そんな調子で、できるだけすこしだけのひとと、かかわるようになっていました。

オニキスという真っ黒な石があるのですが、そのオニキスにように。あたらしいものを入れず、かといって、ふるいものを愛するというわけでもなく。

静かなところで、ゆっくりと、自分の力をとりもどしたい。立ちどまって、ぼんやりとしていたい。そのための時間と空間が、必要だったのかもしれません。


スピリチュアルなことにかかわって、いやなものをみてしまったし、いやな体験もしてしまいました。

純粋な気持ちで、かかわっていたからこそ、傷ついたり、つらくなったりしました。

わたしは安全でも、だまされているような人をみるのはつらかったし、傷ついた純粋なひとたちをみるのが、もっとつらかった。

そんなわたしには、オニキスのような、真っ黒な空間と時間が、必要だったのでしょう。


お仕事も、どんどんやらせていただく、という気持ちにはなれなくて、小さく、隠れるように、やらせていただいていました。

神社やお寺に行くようになって、自然から、たくさんのことを学びました。

あり方、育っていき方、すごし方。

日本や海外の、大きくてやさしい自然によって、だんだんと、体験してしまった悲しみや傷が、癒されていきました。



純粋なひとが、どうして、幸せになれなかったりするんだろう、というのが、わたしが、つらく感じて、胸を痛めていたことでした。

わたしも含めて、なのかもしれないけれど、純粋で、ひとの役に立ちたいと思っている、やさしくてあたたかで敏感な方が、どうして、だまされたり、じゅうぶんな豊かさを、もらえなかったりしているのだろう。

それは、子どものころから、なんとなく感じていた、不条理でした。


チャネリングをするようになってから、神様に、それを、質問したことはありませんでしたが、訴えていたような気がします。

どうして、こんなふうに、不平等な世の中に、なってしまっているの、おかしいよ、と。

神様は、わたしが、自分で答えをみつけるまで、待ってくれていました。


わたしは、敏感でやさしいひと、純粋なひとの、味方になりたいです。

これまでの人生で、生きづらさを感じてきたひとたちの、味方になりたい。

そのようなひとたちの、純粋なに、ふれることや感じることが、とても好きです。純粋な光を、みたり、きいたり、感じたり、したいです。

わたしも、ずっと生きづらくて、息苦しくて、わけのわからない憤りを感じていて、その中で、光をみいだして、希望を持てるようになったから。

この世界は、いやなこともあるけれど、やさしいこともあるよ、ということを、知ってもらいたいのです。


深い深い海の底にもぐっているように、息苦しくて。でも、そのままもっとしずんでいく、勇気はなくて。

とおくの海面に、光がさしていることは、知っていました。

その光は、ずっと、あることは知っていましたが、わたしには関係がない、わたしには、とおく、届かないものだ、わたしのものではないのだ、と思っていました。

その光は、やわらかくて、おだやかで、輝いていて。なつかしくて、いまにも届きそうなくらい、近くにあるような、気もしていました。

その光に、届く方法がわからない。

手を伸ばすことも、拒否されたらどうしようと、こわかったのです。


たとえば、まわりに海の水なんてなくて、水は重たくもつめたくもなくて、ここは地上で、息はすいたいだけ、すいこむことができる、としたら。

地上で、あたたかな太陽があって、ときどき雨や雪やくもりの日があって。

四季があって、大変なときもあるけれど、地上は、楽園のように、ゆたかで、なんでもあるのだとしたら。


わたしが、今おつらい方に、お届けできることばは、あまり多くありません。ほんとうに、つらいときは、つらいと思うからです。

でも、もしかしたら、いつかは、届くかもしれません。

地上にいてもいい、というわたしが気づいたことについて。

ある日、わかるときが、くるかもしれません。


なにももっていないように感じていても、ある日、すべてをもっている、ということに、気づく日が、くるかもしれません。

それは、明日かもしれないし、一年後かもしれないけれど。

だれにも、いつかは、やってきます。

地上で、すべてをもっているのだ、ということに、気づく日が。


それまで、ゆっくりいきましょう。

なにもしなかった、できなかった日も。がんばりすぎて、消耗しすぎてしまった日も。やさしくしたかったのに、できなかった日も。泣きたかったのに、泣けなかった日も。

それらは、気づく日に、近づいている、一日一日です。

わたしたちが、どうにかこうにか、しようとしなくても、そんな日に近づいている、ということは、大きな救いなのかもしれません。


noteをはじめて、思っていたよりも、たくさんの方に、みていただけるようになりました。

うれしいですし、まだ慣れていなくて、困惑もしています。

そんなわたしですが、感じることができたのは、「ひととかかわっていきたい」という気持ちが、わたしの中にもあった、ということです。

いやなひとや、傷つけてくるひとばかりではなくて、やさしくて、おだやかで、純粋なひとたちが、たくさんいらっしゃるのだ、ということを、noteをはじめて、よりいっそう、体験することができました。

そうなったのは、わたしの傷が、いえたからかもしれませんし、時代が、変わったからなのかもしれません。


12月15日に新月をむかえてから、頭の上にあったものが、すっきりとして、考えなくても、書くことができるようになりました。

とても、うれしいです。

どれだけのことが、わたしにできるかは、わからないでいます。

きっと、毎日、こつこつとできることをやるだけ、なのです。

でも、気持ちは、ずいぶんと変わりました。

ひととかかわりたくない、隠れていたい、と思っていたときとは、ちがっています。

冬至をすぎると、もっと、軽くなるのかもしれません。

そうなるといいな、と感じています。

もっと、軽やかに、自由に、純粋に。わたしが感じていることばを、のこしていきたい。必要な方に、届けたいです。


わたしを傷つけたひとや、純粋なひとたちを傷つけてきたひとたちも、きっと、つらかったのだと思います。なやんで、くるしんでいたのだと。

ゆるす必要はなくて、時がきたら、彼らのくるしみがわかってきて、手放すことができるようになります。

それまでは、ゆるさなくても、よいのだと思います。

彼らは、わたしに大切なことを気づかせるために、存在してくれていました。

そのようなお役目をもう、彼らは、担わなくてもいいのですね。

そんな時代は、終わっていって、彼らも、べつのやり方で、ひとの役に立つことができる。

そんなふうに、感じています。


時間はゆっくりと流れていって、わたしのわけのわからないもやもやを、きれいにしてくれました。

自然がそうであるように、ゆっくり、だけれども確実に。

そのことに気がついたら、楽に、生きていくことができますし、地上に、すべてがあったよ、ということが、日に日にわかってくるように、なるのかもしれません。


少しでも、響くことがありましたら、とてもうれしいです。

週末をあたたかくしてすごしましょうね。

今日もありがとうございます!

Sonii

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